時間と構造
時間的な構造を比較的緩やかにしてなるべく柔軟に鍼灸治療をしている。
そうすると治療時間が長くかかってしまったり、短くなったり
(大抵はながくなるケースが多い)
もちろん鍼灸も立派な経済行為なので長くなった料金を請求すれば良いのだがなかなかそうもいかない。
「いつもありがとう!」といただく患者さんの育てた大根やプロッコリーで鍼灸院の家賃が払えたらなんて
新しい未来の経済システムを夢見る最近である。
(このところ鍼灸院の経営本よりも、クルミドコーヒーという喫茶店の店主の本が素晴らく胸にささる)
どうも自分は時間の構造化が苦手なようで
どうしても毎回、音楽やアートのライブセッションをおこなうような臨床になりがちなのだ(もちろん医療や治療はアートな行為でもある)
体質的にシャーマニックなのか
意識下に偶然性を呼び込むような治療へのあこがれがあるかもしれない。
ある種のアーティストのような鍼灸の名人技に魅せられたり東洋的な修行や変容の世界観(ドラゴンボールだってそうだ)を少年のころから無意識に引きずっているかもだ。
一方
科学的な再現性を基礎において
介入と結果を結んだカッチリとしたエビデンスベースドな研究や臨床にも憧れもする。(ナイチンゲールが統計を駆使して多くの兵士を救ったエピソードはとても好きだったりする)
客観的に臨床を見つめるべく
最近は認知行動療法の勉強会にも参加したりしている。
まあ内心揺れながら臨床に向かっているのが実情だ。
臨床は悩むことばかりなのだ。
治療の結果、患者さんを治さなければならない
もちろん
そこに事業としての採算もあわせなければならない。
自分のような一人鍼灸院ではいつバーンアウトしてもおかしくない綱渡りを歩いているともいえる。(なんなら対人援助者のバーンアウトの研究をしたいくらいだ)
ここに臨床心理学系大学院にこの春から入学してしまったものだから最近の自分のアイデンティティは危機状態だ。
これはユングの中年の危機とも重なるのだが、混沌から再び再統合へのコンステレーション。
これはしがないおっさん鍼灸師の自分だけではなく、これをよんでいるみなさんも経験するだろうライフサイクルにおけるひとつのステージともいえる。
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