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歩きながら考える


「歩きながら考える」という本を読んだ。

本屋博で購入したもので、スクエアの形と本文の紙質が心地よく、なによりタイトルが、その時の自分が欲していることであったので連れて帰ることにした。

本屋に行くと、私はついつい欲しい本を増やしてしまう。その中でお財布と相談して連れて帰る本を絞るのは、苦難の作業である。どの本も自分にとって素晴らしいものになることは分かっているから、選べない。だからこういう、「今の私にとって、この本はタイムリーだ!これは出会いだ!」なんて思ったら手に取るように、最近はしている。それでも欲しい本は増えるし絞れないのだが、この、ビビッとくる感じを活用しなければ私は本屋から帰れない。

今作っている本の表紙を考えなおしているところなのだが、ここ数日はなんだか捗らず、疲労感も感じている。ただの寝過ぎか、外出できないストレスか、月のものが来たせいなのか。気づけば退職してから約1ヶ月、ほぼ毎日のように「つくる」ことに関して考えていたし、作業していた。いや、毎日ではないかな。たまに3日くらいは何も考えない日もあったかな。しかし平日も土日も関係なくしていたし、そろそろ疲れがでてもおかしくない。
今日はやっと、使うかもしれない紙たちを注文して、まだ編集は終わっていないけど、少し休もうと思い、ごろごろしていた。久しぶりに好きな音楽を流して癒される。

ふと、何か読もうと手に取った本がこれだった。

私は最近になって、「本がすき」と自覚するようになったが、世間が思うような本好きとは違うのかなと思っている。だって、読むのは遅いし、有名な本も、読みたい本も、全然読めていない。
本屋博で買った本も、10冊程度あっただろうか。何冊読んだのだろうか、まだ半分も読めていないと思う。その後、何件か小さな本屋を回って少しずつ買った本も、読めないまま過ぎているものばかりだ。

積読という言葉、本当に良い言葉だと思う。
私は物理的にはあまり積んではいないが(笑)溜めている。
本は、その人それぞれのペースで、読みたいときに読み進められるのが本当に良いと思う。

ちなみに、私が一番本を読んでいた時代はおそらく小学生の頃で、高校生や大学など、課題などが増えていくごとになかなか読む時間を取れなくなっていた。
大学の時は、通学の時に電車で読むことはしていたけど、社会人になるとさらに時間を取れなくなり、2年前に引っ越したため通勤も車になってから、本当にほとんど本を読むことができていなかった。働きながらもたくさん本を読んでいる人はすごいなと尊敬する。

私は、本を読むときはあまり中断せずに集中してその世界に浸りたい気持ちがある。小学生のころは中断しても必ず次の日には再開できたので記憶が新しいまま読み続けられたけど、大人になった今の私には、他にもやりたいことがたくさんあるため毎日同じことをすることが難しい。最近はできるだけ、今なら一気に読めるだろうというときに、邪魔が入らないように集中して読むことにしている。尚更、本を読む時間が取りづらいのは明らかだ。

最近、周りの友人にも少しずつ本を作っている話をするようになったからか、人から「本好きだもんね」と言われることが増え、やや違和感を感じつつ、もっと本を読みたいなという気持ちを強めている。



さて、前置きが、うん。かなり長くなったが、本題に入ろう。

前回の記事をたくさんの方に読んでいただいているようで、本当に嬉しい。フォローしていただいた方も多くてびっくりしている。ありがとうございます。

今作っている本が終わったら、次は雑誌のような編集ができる本を作ろうかなと考えている。内容は、まだ確定ではないけど、私の好きなものたち、第1弾として すきな本について勝手に語ろうかと思っているのだが、うまくいくだろうか。まあ、予定は未定です。

別に、物書きを目指しているつもりはそんなにないのだけど、本は内容が無いとはじまらないし、その内容をいろんな人に依頼できるようになればもちろんいいのだけれど、最初は自分でできる範囲のことをやってみようかな、と、今は書いてみている。
まだ、書きたいけど書けていないこともたくさんあるし。

書くことは、私にとってストレス発散のひとつのようで、だらだらとした日記を書き殴るのは得意だ。でも理路整然とした、読みやすい文章を書けと言われたら、自信はない。
Noteに公開する時は、読みにくくならないように気をつけているけど、なんだか今日は無理そうだ。飽きない方はお付き合いいただければ。


以前に「庭」という文芸誌を読んだ時にも思ったのだが、私は自分が興味あるからそのZINEを買うわけで、同じ話題を自分も語ってみたくなる。読めば読むほど書きたくなるこの頃です。
しかし、今回読んだ本は、内容もしっかりしているし書いている人たちもきっとすごい人達なんだろうなと感じ、正直私なんかがぐだぐだ書いてんじゃねーよ、と思い、ちょっと書くのが怖くなりました。でも私の文章は私にしか書けないだろうし、私の考えたことも感じたことも表現できるのは私だけ、と信じて、もう少し書き続けてみます。

てなわけで、私なりの「歩きながら考える」を。

「歩く」という行為は、私が昔も今も好きなことのひとつ。
学生時代、一緒にいる時間が短くなるのが惜しくて、あえて自転車を押しながら友達や異性と話して帰る通学路。きっとこれは多くの人が経験したことがあるんだろうな。
私が一番好きだったのは、大学時代、友達と飲んでから電車で1時間移動して最寄駅から帰る道。母は夜遅いから迎えにいくよ、と毎回言ってくれていたのですが、私はその心配をよそに、いろいろな理由をこじつけてそれを断ることが多かった。友達とゆっくり飲んで話したいのに、迎えに来てもらうからには帰る時間を気にしないといけないことも億劫だった。時間を気にして行動するのが私はとても苦手なのである。
友達と満足に飲んで、けっこう酔っても、いつも電車で1時間帰ってくるともうほとんど酔いは覚めていた。ほんのりほろよいな感じで、暗くなった、歩きなれた道を歩く。地元は終電の時間には同時に駅を出るのは10人程度というところか、そんなに人は多くなく、その中で私は人よりのんびり歩くので、駅から数メートル離れると道には誰もいなかった。むしろ私は、誰かが同じ道を歩いている方が怖いので(いるとしても一人とかなので余計怖い)あえて人があまり通らなそうな道を選んで帰っていたりした。
そういう帰り道、酔っている具合にもよるが、暗い夜道の中で、街灯や、マンションの光、ずっと赤に点滅している信号、工事中の光るカラーコンなど、些細な光が、少し目を細めるとキラキラ見えるのが好きで、あえて焦点をぼやかして眺めてみたり、ケータイで写真を撮ったり、ツイッターに呟いたりしながら、だらだら歩くのが、好きだった。ふつうに歩けば、徒歩15分の道を、だらだら、30分か、45分、長い時は、家の近くの公園で寄り道してブランコ乗ったりして、1時間半くらいかけていた時もあった。帰り道はずっと音楽を聞いていたので、いくらでも過ごせたのだ。(夜道のイヤホンは危ないヨ☆)
母の優しさを断るのは申し訳なかったが、1時間半もだらだら楽しめる時間を、車で5分であっという間に終わらせるのは、私にはあまりにも惜しかった。

最近は車移動が増えたけれど、ひとりで旅行に行くと食べるのも忘れて歩いている。
歩かないと見つけられないお店や路地、現地の人たちの話し声、日差しや影。歩いて目についたもの、印象に残ったものをひとつひとつ写真に撮る。ついつい歩き過ぎて、股関節が外れそうになる。うっかり夜遅くなってしまって、夜ご飯食べるところが見つからなかったりもする。誰かと歩くのも好きだけど、ついつい写真を撮るために何度も立ち止まったり何分も時間をかけたりしてしまうことも多く、人を待たせるのは申し訳ないので、ひとりで行動するのが気が楽。


私は今、仕事をやめて、「人生の美大生期間」をしているのだが、それはまさに、私にとって「歩くはやさで生きる」ということ。

ちょうど、本を読む時間が取れなくなってきた頃から、それと比例して、私は「やりたいことを我慢する」ということが増えてきたと思っている。高校では受験勉強や課題、大学では実習や長い通学時間、大人になるとは、時間を守り、やるべきことのみをやるということであると教えられたかのように、私は、今やりたくてもできないなと思うことが増えていった。勉学に差し障るような余計なことをしたり考えたりは、今やることじゃないでしょ!という雰囲気。今思うと、その時やりたいことを、その時やらなくて、いつやるんだって感じだ。まあそんな学生時代だったけど、可能な範囲でやりくりしてやりたいことをして、なんとか卒業。社会人になって、自分のお金ができて、合間をぬって少しずつやりたいことに手をつけていたが、出勤時間は決まっているので、何かに集中したくても、思うように時間を取れる機会も少なかった。
貯金できるまで働いたら、仕事辞めて海外行くんだ!という、高校生の時からの目標を、今、やっと叶えようとしている。今は出発できないけど、でもとにかく、この1年は、私が私の気持ちにだけ従っていいという、贅沢期間。

仕事をしているときは、私は私なりにそこまでストレス抱えずに過ごしていると思っていたけど、こんな私でも、無意識下で気を遣っていたり、人の行動や発言にじわじわとストレスを感じていたり、自分の感情をどれだけ殺して過ごしていたか、辞めてみて分かった。
多くの日本人が、職場が、このような状況にあるのではないかな、とも思った。
だから生きるのが嫌なんて人が増えているんじゃないかと。
今は自分が思うがまま行動できる時間が本当にありがたくて、日本に住んでいる全員が、働いている人もみんなそうなれればいいのにな、と思う。
政治家も専門家も、上司も部下も、主婦もニートもフリーターも学生も、大人も子供もみんな対等に意見してお互いを尊重しあえれば、それぞれが正しい主張をして受け入れられる雰囲気ができれば、きっと世の中がもっと良くなって、政治がうまくいっている国みたいに近づけるのではないかと思ったり。そうなれるまでの過程はわたしにも良く分からないんだけどね。
話がそれた、失礼。


「歩くはやさで、息をして。歩くはやさでこの恋をしてる。」
歩く、という言葉から、いつも思い出す、大好きな歌詞。
自分の気持ちに正直に、歩くはやさでのんびりと生きていくのです。

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