はじまりのXYZ | エッセイ
「XYZは最後のカクテルって言われてる。アルファベットの最後だから」
最後のカクテル、と私は繰り返した。薄暗いバーで、オーナーは続ける。
「最後ってことは、また最初があるってことだろ」
それはたしか、春の気持ちのよい夜のことだった。23時半過ぎ、バーの扉を開くと客は誰もおらず、唯一の店員であるオーナーに私はカウンター席へ促された。
「きらきらした感じのやつ、お願いします」
21歳のめちゃくちゃな注文でも「はいよ」と出してくれる彼は無愛想な50代の韓国人で、不思議な安心感があって当時よく通っていた。出されたいちごミルクサワーのようなカクテルを飲んでいると、「バイト帰り?」と聞かれた。
「ううん、遊んできた帰り」
珍しいな、と呟く彼。私はちょっと黙ってから、笑って「別れてきたの」と言った。
「えっ?」
珍しく大きな声を出して彼は目を丸くした。小さなテレビでは白黒映画が流れている。
甘ったるい味は気分じゃなかったな、なんて失礼なことを考えながら私はカクテルを飲み進めた。彼は、中身が減っていく私のグラスをしばらく見つめて「よし、お祝いに一杯作ろう」と言った。
怪訝な顔の私をよそに、彼はシャカシャカとなにかを作り始める。慰めてくれてるのかな、平気だから別にいいのに。困らせたかな。ぼんやりと見ているうちに、三角のグラスに液体が注がれた。ショートカクテルだ。
口をつけると、がつんとお酒の濃い味と爽やかな柑橘系の香りがする。
「XYZっていうカクテル。ラムがベースで、キュラソーとレモンが入ってる」
へええ、と私は飲み進めた。大人な味だった。
「XYZは最後のカクテルって言われてる」
彼はにこりともせず下を向いたまま渋い声で呟いた。
「終わりは始まりっていうだろ。だから、めでたいことだよ」
彼の顔はよく見えなかったけれど、『終わりは始まり』というフレーズが、アスファルトに染みついた花火の跡のように私の脳裏にじんわりと焼きついていった。
静かな店内に、かちゃり、とグラスを片付ける音が響いた。やたらと観葉植物が繁るこのバーはいつだって薄暗い。ああ、そういえばあの人もそんな風に、カウンターの向こうでグラスを磨いていたっけ。目の前で揺れる葉が、すこしだけ滲んだ。
また始まるかな。私の言葉に、気のない返事。私はもうひとくちXYZを飲んだ。強い味が来て、爽やかで。ちょっとだけ苦くて。でもほんのり、甘かった。
液晶の向こうでオードリー・ヘップバーンが微笑む。今日はもう客来ねえな、とオーナーがぼやく。グラスの水滴が指に落ちる。
気持ちのよい春の夜。なにかが、きちんと終わる味がした。
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