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恋文の呪い | 小説

 今日はありがとう。楽しかったです。
 書いているのは前日だけど、楽しかったに決まっているので。貴重な休日を私にくれてありがとう。
 いまね、大学のカフェでこの手紙を書いているの。あと少しで卒業かと思うと、時の流れの速さにびっくりしてしまいます。あなたと出会ってからもうすぐ4年。あっという間でしたね。
 あなたがこれを読んでいるということは、もう会わないと私から伝えることができたのでしょう。そのつもりで、あなたに会いに行きます。あなたはどうかな。
 最後にふたつだけ、伝えたいことがあります。
 ひとつは、本当に感謝しているということ。思い返せばこの4年間、私は助けてもらってばかりでした。あなたはよく、こんな自分のどこが好きなの、と聞いたけれど。勉強を教えてくれたり、悩みを聞いてくれたり、お土産をくれたり、甘い煙草を教えてくれたり。私のくだらない話を笑って聞いて、笑わせてくれた、そんなところももちろんだけれど。
 たとえば、嫌なことがあって落ち込んだ日も、あなたの顔を見たらそんな気持ちは消えてしまうから。あなたにはそういう、目の前の人を元気にしてしまう不思議なところがあって、私はそんなあなたがずっとずっと好きだったし、尊敬しているし、何度も救われたんだと思う。
 だから、願わくば私も、あなたの力になりたかったのだけれど。理想に近づきたかったのだけれど、背伸びをしていたのだけれど。足りないばかりで。だから伝えたいことのふたつめは、ごめんなさい、です。
 あなたと一緒にいられないこと、本当に悲しいし悔しい。あなたが家に帰るまでの間だけでいいから、あなたもそう思ってくれていたら嬉しいなんて思う、最後まで幼稚な私でごめんね。
 読んでくれてありがとう。体に気をつけてね。幸せを祈っています。


 畳んだ手紙が、私の手のひらの中でくしゃりと音を立てた。目を伏せて微笑んだ彼女の、震える睫毛を思い出す。
 いっそ罵ってくれたらよかったのに。
 ライターの火をかざすと、手紙はみるみるうちに炎に包まれた。人気のない河川敷のコンクリートブロックの上で、それは黒く染まって小さく小さくなっていく。
 ふうう、と煙を吐き出す。ふたつの煙が恨めしそうにゆらゆらと、暗い空へ上っていった。甘いはずの煙草が、今日はすこし渋い。


「おかえり、早かったね」
 夫の声にただいま、と返して薄いコートを脱ぐ。彼の前にはパスタが山盛りになった皿が見えた。
「夕ごはん、俺の分しか作ってないや……どうする?」
 ちょっとだけ分けて、と返す私に夫は「いいよ、取り分けるね」と笑う。温かい家に帰る、というのはとても気持ちがよい。テレビからは知らないタレントの笑い声があふれている。
「珍しいね。夕飯食べてくるかと思った」
 彼の言葉に曖昧に頷いて座った。結婚したのはつい最近だが、付き合いは6年を超える。恋や愛は慣れ親しみになり、友愛のようなぬるい鎖として私たちを繋いでいた。
 トマトソースにベーコンやナスが入ったパスタは夫好みのアラビアータで、私にとっては辛すぎた。ごくごくと飲み干した水が焼けた喉を滑り落ちて咽せてしまう。
「ごめん、辛かったね」
 夫が慌てて足してくれた水を飲む。だいじょうぶ、ありがとうと言った私を見て、夫はほっとしたように席に戻った。
夏木なつきさんは元気だった?」
 ふと発せられた名前に、すっと脳が冷える。彼女、夏木優歌ゆうかは夫と私がいた大学の2年後輩だ。今日だって、彼女と遊ぶと言って家を出た。自然な話題だ、私はできるだけ口角を上げる。
「大変そうだったよ、卒業論文に追われていて」
「うわあ、懐かしいなあ。そんな季節か」
 目を細めて夫が笑う。
「あの子、きみによく懐いてたもんな。ときどき会って励ましてやらないとな」
 何気ない言葉に、最後まで泣かなかった彼女の姿が浮かぶ。いつも私を見つけては遠くから走り寄ってきた彼女。今ごろ家で泣いているのだろうか。
「就職したら忙しくなるし、きっともうそんなに会わないよ」
 そっか、と夫は頷いてから私の顔を覗き込んだ。
「この前の旅行で買ってた犬の御守り、夏木さんに渡せた?」
 うん、と頷いてから私は固まる。
「……あれ、優歌へのお土産だなんて言ったっけ?」
 夫は首をふる。そういえば、優歌が犬を飼ってるなんて話したっけ。
「夏木さんのことを話すときと、同じ顔で選んでいたから」
 そっか、なんか恥ずかしいな。私はそう言ってうつむく。神社で犬の御守りを見つけて、彼女の顔が浮かんだ。最近、柴犬を飼い始めた彼女。きょとんとした瞳が彼女にそっくりで、まるで姉妹のようだった。体が冷えていく。

——勉強を教えてくれたり、悩みを聞いてくれたり、お土産をくれたり、甘い煙草を教えてくれたり。

 手紙の言葉がよみがえる。泣き喚きもしなかった彼女の、感謝や私への気遣いに忍ばせた執着や嫉妬が「私を忘れないで」と叫んでいるみたいだった。黒く焼けていったあの手紙が、彼女との記憶が、私の胸に刻まれている。言葉にされていないじりじりとした粘着力のある恨みが私を蝕んでいく。私が彼女を救った回数よりも、彼女が陰で泣いた回数のほうがよっぽど多かっただろう。それでも私から離せなかった、あの細くしなやかな指を思い出す。あなたがすぐにでも私を忘れてくれたらと願う、薄情な私でごめん。かわりに、私はずっとあなたのすべてを覚えているから。

「信じているから、ね」
 はっと顔をあげると、夫がまっすぐこちらを見ていた。口元は笑ったまま、黒縁の眼鏡の奥の瞳は鋭い。
「大丈夫よ」
 咄嗟に目を逸らしてしまう。しまった。本当に大丈夫な人間は、『何が?』と返すはずだ。
 息を吸い、ゆっくり吐く。テレビから聞こえるタレントたちの笑い声がやけに野太く聞こえる。彼女は男の人の笑い声が苦手で、テレビをほとんどつけなかったな。薄暗い部屋でふたり黙って肌を寄せているだけで、なにもかも分かり合える気がした。あの時間が好きだった。

「うん。信じているから」
 夫がもう一度、ゆっくりと言う。噛み締めるように。
「うん。大丈夫よ」
 今度は私も、まっすぐに夫の目を見て言う。できるだけ、ゆっくりと。

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