私のこと
思春期の反抗のせいで、高度経済成長期の消費生活を疎んだ。ボォーヴワールに傾倒し自分を客体化せざるを得ないジェンダーに涙が止まらなかったこともある。手の平を返したように世の中というものが豹変することは戦前戦後を体験しなくても想像できた。力まず柳のようにいきたいものだが、力が入っていたと気づくのはいつでも力が抜けてからだ。
学歴も拒み才能も能力も低い。定職にも就きたくないし、結婚もしたくないつっぱり、不良、フラッパーに甘んじた。日常を飛び越える魔力のある恋愛だけがリアルであり、その恋愛が日常となる結婚を適齢期にちゃんと選ぶことになった。稼ぐことと学ぶことが同時という、ちぐはぐさだったがそれは結構正しく、自分としては普通に学び、稼げた。普通というスタイルをとることで優越感に歯止めをかけるという共存戦略。
どこの土地に行っても図書館が逃避と快楽への入り口であったが、出口の外の町街並みや、緑が心底美しく目に入った。読書は知の複雑さに耐えるという不快や忍耐も教えてくれた。
英語を教える仕事に就いたが、言葉は心が発するものなので教えることとは馴染まない。他者と場を共有するということに創造の日々を長きに挑戦した。
何か新しいことを始める時は今までの散らかりを片づけたい。片付けるということは、能動的な作業だ。流れるまま時を送っているとどんどん散らかってゆく。
しかし心配はいらない。片付く時がくれば自ずと片付いてゆくものだ。
低成長時代、かつてのフェミニズムに泣き笑い、年嵩がゆけば、「主体化せよ」と叱咤されなくても自分が自分の主人であり且つ、招かれた客人でもある様に感じている。
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