ライカ太郎、ライカM4とズマロンで長崎・五島へ(6) 〜遣唐使最後の国内寄港地として〜
遣唐使の国内最終寄港地・五島福江島
五島には古くは縄文・弥生時代の遺跡があったりするなど、日本史の始まる前から文化、人の交流があった島だと聞いています。
遣唐使が派遣されていた頃は、日本での最終寄港地として福江島は存在していました。
高崎鼻にて
バイクで走っていると、三井楽の北側にひらけた草原が見えてきました。ここは高崎鼻(高崎草原)と呼ばれている場所です。
日の出の時間帯であったこともあり、辺りには誰もいません。太陽は煌々と照っていますが嫌な暑さではなく、なんとなく温かい陽光を感じます。
とても伸び伸びとできる場所。
この海の向こうは中国大陸。
遣唐使もこの風景をみたのでしょうかね。
この場所が持つ柔らかい空気を、わたしのライカはすくい取ることができたようです。
辞本涯(じほんがい)
高崎鼻から少し西にある柏崎へ移動します。
ここ柏崎には弘法大師空海の銅像と、有名な「辞本涯」の碑文が立っています。
万葉集に収められた、遣唐使船に乗る我が子の無事を願う歌
この石碑には一首、和歌が刻まれています
石碑の隣にあるプレートには、この和歌についての解説がありました。引用させていただきます。
遣唐使として旅立つわが子の無事を祈る母の歌(万葉集巻九〜117911番)
天平5年(733年)第9次遣唐使船の出港の時、旅立つわが子の無事をひたすら願って詠んだ歌として万葉集上巻の1790番に次の長歌があり、その反歌として詠まれている代表的な遣唐使を送る歌である。
「秋萩を 妻問う鹿こそ ひとり子に 子持てりといへ 鹿児しもの わがこひとり子の 草まくら 旅にし行けば 竹玉を 糸に貫き垂れ いはひべに わが思ふ吾子 真幸くありこそ」
と同じわが子の無事を願う母の歌に返して、
「空高く旅する鶴たちよ、霜降る野に眠るわが子を見たら、どうぞその羽根で包んで暖めておくれ」と願う母の子を思う心が「辞本涯」の値に立つと更に感慨深いのである。
ふぜん川と岩嶽神社
もう一箇所、遣唐使にまつわる場所を。
三井楽の集落にある「ふぜん川(河)」は、遣唐使船のための水くみ場だったそうです。渡海には飲料水が欠かせませんね。ここの水を満載して唐へ渡っていったことでしょう。
ふぜん川の解説はこちらに。
そして隣にある岩嶽神社はなんと、鎖鎌職人を祀っているそうです。
五島は「潜伏キリシタンの祈りの島」という印象が強いと思いますが、万葉の時代から国境の島として存在していた事実を今回、バイクで走りながら感じていました。いろいろな人にとって思い出の島だったのだな、と感じています。
ライカで撮った写真が少ない・・・
今回の場所ではライカで撮影した写真は2枚しかありませんでした。もう少しライカで撮っておけば良かったのですが、フィルムの残り枚数も少なくなってきていて・・・36枚撮り1本で1週間ほど旅するのは、なかなか難しいものですね。