帰り道で考えたこと
バスは夜の街を進んでいた。街灯は無気力に行き先を照らしていた。
私は代わり映えのしないスマートフォンの画面に倦んで外の景色へ視線を逃がしていた。少々の幸福感と承認と充足をもたらすこの文明の利器に一日中夢中になっているにもかかわらず、その恩恵にすら満足できないために、時折こうして逃げたくなるのだ。道沿いの建物は本当の顔を見せていた。日光の力を借りていない、コンクリートや土そのものの色を。
バスの案内音声は昼間と変わりなくて、それがためにより一層無機質であった。あのようにして夜の闇に挑んでいるのだろう。たとえ日没後であっても、我々は昼間と同じように活動できるという、自然に対する挑戦の表れだ。人間は知性と理性と科学をもって自然及び過去と決別しようとしているようだ。一度壊してから自分たちのやり方で作り直すという方法で。自然が強いた法則・決まりから自由になって、その法則に縛られていた過去からも独立するというのが現代人の目指しているところではないだろうか。
人間関係が良い例であろう。自然及び古い時代の繋がり方としての血縁関係から現代人は離れつつある。隣に住む人と血縁関係があるとは限らないし、味方・仲間であるとも限らない。親戚は各地方に分散し、家族であっても同居していない場合も多い。地理的な意味合いだけでなく、心的距離も血縁関係を拠り所にできなくなってきている。そのように一旦断ち切った人間関係を、今度はコミュニケーションという道具を用いて再構成しようとしている。人間は他者と関係を結ぶために努力してコミュニケーションをとる必要があるのだ。
人間は遠く離れた相手ともコミュニケーションを取るために、様々な道具を生み出した。夜でも昼間と同じように活動するために明かりを照らし、いつでも立ち寄れる店を開いた。もはや夜の闇に怯える我々ではない。群れで生きる我々ではない。そんな風にして、自然に支配される動物ではなく理性的自立者となろうとして、在ろうとしている。災害という自然の驚異に生活を奪われることを全力で防ごうとしている。現代人の理想は、自然を支配者ではなく鑑賞物にすることだろう。
空を見上げると薄い雲の向こうにぼやけた月を見つけた。近視で乱視の目には月ははっきりと映らない。月が惑星であることに気づいてしまった我々に、餅をつくうさぎも蟹もいないと知ってしまった我々に、詩を生み出すことなどできるのだろうか。科学による分析に収斂していく世界の中で、文学と詩はどのように存在できるだろうか。行き場を失った感性が地球の表面で彷徨っている。