駄々文#4
“This is 向井秀徳”こと”ZAZEN BOYS”12年ぶりの新譜から、毎日のようにカヴァー動画を上げているわけなんですがね。昨晩寝る前に、向井秀徳の最新インタビュー記事を見つけてしまって、じゃあこれを見たら眠るかと読み始めたんですわ。そしたら、なんつうか、くらいましてね。
彼は、スタジオで顔を突き合わせないとバンドはできないと言う。ライブ活動で聴かせる相手がいないとやる気がまったく起きないと言う。だから、コロナ禍中は作曲すら捗らず、家でずっと映画を見ていたと。作品を残すということは、自分を刻み込むこと、お手軽じゃないと。
その考え方は去年までの私なんですね。まあ私は、言っていただけでずっとサボっていたようなもんでしたが、しかし去年に置いてきた従来の私の憧れそのものだったんです。
昨日はちょうど、一番最近まで(もう2,3年前ですが)やっていたバンドの元メンバーと久しぶりに会って話したんです。
彼女はクラシック出身の職業演奏家なので、当時ロックバンドの在籍経験がなく、採算を考えてより少ないリハーサルで本番に臨むことを求めていました。一方私は、顔を突き合わせた数だけいい演奏ができると本気で思っていたので、なるだけ多くのリハと、終わった後の食事への参加を求めました。音楽性の反りも合わず、結局数回のライブを経てコロナ禍へ突入、そろそろ活動再開かというタイミングで辞表を出されてしまったわけです。
昨日の私はディラボラ風チキンを頬張りながら言いました。”あの時は俺が間違っていた。もっと上手くやるべきだった。今ならそれができる。”みたいなことを。いや、よりを戻したい元夫婦かよ!って感じですけどまあ、そんなことを言って、今後はお互い音楽仲間として頭の片隅に置いておこうということになったんです。
別に何も間違ってないと思いますよ。なんなら素晴らしい、とても大人になった。しかし向井秀徳、俺はあなたのようにはなれなかった。
あなたの合理性は、顔を突き合わせて一斉のーせでやること。殺伐とした空気、一体感、生々しさを閉じ込めるにはそれが一番手っ取り早い。私もそう思う、しかし、茨の道だ。
もううんざりしたので、多くの人が優先している合理性も認めることにした。皆仕事や趣味で忙しい。金もない。今はこんな便利なものがある。じゃあそれを使ってみよう、もう、使わせてくれ。
今思えば、私もコロナ禍で色々変わったのかもしれない。被害は何も受けていないと思っていたが、件のバンドのライブがしっかり中止になっていた。バイトも休みになって、例に漏れずしっかり引きこもって、スティーブライヒのドラミングの演奏動画を見ていた。アニメも沢山見て、ずっと座っていたので腰痛持ちになった。
その中でも新しいことを見つけて、手に職つけているやつを横目で眺めていた。明けてからも、もうバンドという大所帯を動かそうという気にはならなかった。ああいうことは、またいつか起こりうる。だから、姿形を変えられるだけ変えて賢く生きていかねばならない。その教訓が、そこからさら2年費やして、ようやく燃え始めたのである。そうやって新たな道を探す、自分なりの道を。だからどうか許してほしい。
そんなことがありまして、気軽にカヴァーできなくなってしまいました。実はインタビューを読む前からそれは感じ始めていて、やっぱりやっているとわかるんですよ。なぜこんなにシンプルなのか、それは一音一音に想いを込められる限界が、意外とこれくらいなのだろうって。何回も何回も繰り返し合わせていると、自分が向き合えない音がわかってきて、取り除かれていくんだと思うんです。
ちゃんとやらねばと、そう思いました。一体何をちゃんとやるのか考えることも含めて。