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駄々文#12

 只今の時刻は深夜2時47分。
昼間の予定を終えて空腹中の空腹の中帰宅し、晩御飯に焼き鯖と昨晩の残りのポトフと大盛の白飯をかっ喰らった。
後に案の定眠くなり、自室のベッドで普段と反対向きに電気つけっぱで夢現の迷宮を彷徨い、先ほど離脱したところだ。

起きてすぐ最寄りの”ファミマ”へ行き、オンシーズンとなった辛辛魚カップラーメンを2つ買って、ひとつはその場でお湯を入れて帰宅してから食らった。
辛辛魚カップラーメンは麺がしっかりしており、きちんとした熱湯で指定された4分を待たなければバリカタで食すことになる。
帰りに外気にさらされたこいつもそれは例外ではない。

そのバリカタを一通り啜り終わった後のスープを別皿に移し、炊飯器に余っていた茶碗一杯ないくらいの米を全て入れ、卵を落とし、ラップをかけてレンジでチンしたものを食らった。
それでもまだスープは少しだけ余らしてあって、明日パスタにでも使おうと思っている。
毎年恒例の2月中旬の過ごし方である。

 何かをしながら何かをするということがさっぱりできなくなって久しい。
小学生の頃、一人で教室の机に座っていると周りの会話が同時に耳の中に入ってきて、割と聞き分けられた。
自覚をしたのは小4の時で、席は右からも後ろからも2番目、書道の時間の前か後だったと記憶している。
直近の社会科の授業で聖徳太子のことでもやったのだろう、なんだ普通じゃないかと思っていたと思う。

やがてそれはとんだ勘違いであると判明するのだが、高校〜25歳くらい、いわゆる突発性難聴を患うまでは、家でも外でも常にイヤホンをして音楽を聴いており、トイレにも風呂にも音楽プレーヤーを持って行っていた。
耳を使わなくていい時は常にで、当然こうやって書き物をしている時も音楽を聴いていたし、それなりにそれで捗ることもあったのだけど、じゃあ今はどうかというと、エアコンの風の音と蛍光灯がほのかに発する低音の中でこれを書いている。
昨日はラジオを聴きながら書いていたが、それもなんだか、全く捗りはしない。どちらかがどちらかに引っ張られて疎かみたいな。

ひとつは、単純に集中していること以外に周囲に発する注意力みたいなものが衰えたんだと思う。
もうひとつは、聴力が占める情報量の割合が年々増えているということ。
先日も視覚のメモリみたいな話をしましたがね、やはり耳が良くなっておるんですよ。
この耳が良いっていうのは、低い音から高いまで、大きい音から小さい音までちゃんと聞こえるみたいなものではなくて、ひとつの音に対して脳が思い浮かべることの量が増えているという話。
長くなるので詳細は書かないが、要はもう、気になって気になってなんとなくじゃ聞けんってことですな。

 これを衰えと捉えるのか成長と捉えるのか、どちらかと言われればそれは都合の良さという観点から後者をとるが、正直に答えれば、私の場合こういったものは全て単に変化と捉える、もっとわかりやすい例でも同じである。

ことある度に成長という言葉を連呼されると、私は違和感を覚えてしまう。
その言い方は、得たものに対してのみフォーカスしていて、失ったものを正確に数えられていないと感じるからだ。
先ほどの話は、二つのことを同時にできなくなったとだけ言えば衰退の話であり、一つのことに対する情報量が増えたとだけ言えば成長の話になる。
人は良くなっていくわけでも悪くなっていくわけでもない、ただ変わっていくのみ。
そうでないと、以前と比べてこんなに友好的なった私と、かえって疎遠になる人が現れた時に、とてもじゃないけど耐えられない。

 只今の時刻は3時40分、もう1時間も経ってしまった。
もうじき親父殿が起きてきてガサゴソと登山の支度を始める。
今日は雲取山に行くそうなので、雪山で遭難してこれで会うのが最後になることも想定して、寝る前に手を合わせておいた。
そういった変化は、わかっていてもごめんだなあ。

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