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駄々文#8

 今日はほとんど何も作業ができなかった。19時頃に外出から帰宅して、急激な眠気に襲われたので抵抗せずに仮眠についた。0時過ぎにアラームでガバッと起きて、風呂に入って、次回投稿するラジオを改めて聴き直して、今である。朝に入れたコーヒーの残りをレンジで温めている。

 私はおそらく、コーヒーの美味しさというものを知らない。酸化しきって半分有毒物質と化したであろうものも平気で啜る。苦味という不味さを愛していると言ってもいい。不味いからこそコーヒーみたいな、不味いもう一杯みたいな。きっと、子供の舌のまま無理して飲んでいるうちにクセになったのだろう。

 これは、一体何の養分になっているのだろうか。喜怒哀楽で言えば、怒哀がなぜ必要なのだという話に近いと思うが、結論から言えば、そのバランスを取ることが自らの心身の均衡を保つのだろうと思うわけです。本田流哲学で言えば、万物は波である。地球の波、海の波、音の波、出会いの波、体調の波、気分の波。その絶え間ない波の渦中で、自分がどの地点におるのか、認識し対策をとってやれば、波のない世界への憧れを回避できると思うんですね。わかりやすく精神の波に例えれば、自分が落ち込んでいる時に、永遠と停滞が続くわけではないということに気づいた瞬間に、上向きの波に乗れたり、その波を待ったりすることができるわけです。逆に言えば、落込むことは別に悪いことではない。ただ、それを悪いとする理由が強調されているだけ。本当に悪いものなら、そういったメカニズムは淘汰されているはずなんですね。

 そうやって、自らの波を微調整することもできる。コーヒーを飲むのはその作業なんでしょうね。甘いものを食べる、旨味の強いものを食べる。一方で、苦いもの、嫌いなものも食べる。そうやって波を行き来して増幅させて、その振れ幅を楽しむ。また、常に波がある状態というのは、一周回って安定しているとも取れる。

 今はまた少し違った捉え方ですが、かつての私は絶望する度に安心もしていた。よかった、またここに戻って来られたと。躁も鬱も楽しむ、本当に苦しんでいる人には届かない言葉だと思いますが、私はそうやって下向きの波も作っていた。上と下と真ん中、そしてその間々、居場所が沢山あるのはいいことです。波を作らないことというよりも、波があることを受け入れるということが、仏教で言うところの”中道”、心身の平穏なのではと解釈しております。

 というわけで、温め終わったコーヒーを啜っているわけですが、うん、やっぱ不味いなこれは。

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