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駄々文#9

 創作事をする人間には2種類いて、それは自分の過去作品を鑑賞する人間としない人間である。私は前者側の人間で、この文章も書いて投稿したあと数日で5回は読んでいる。自己愛が強いのもそうだが、そうやって客観的に自分の振る舞いを見ることが未来の自分の創作にいい影響を与えると信じているのだろう。そうやって読み返していると、誤字脱字に気づく時がある。書いて投稿する前も入念にチェックしているはずなのだが、こればかりは仕方がないので、気づく度に編集している。他にも、助詞の使い方、ひらがなで書くか漢字で書くか、言い回し等々、添削事項は多い。もし、しばらく経って私の過去の文を読み返しても、チグハグなところや同じ言葉で違う字が使われていたりしたら、それは意図的にそうしている可能性が極めて高いと思う。それぐらい、私は私の作品のファンだ。
 で、さっき気づいたのだが、Instagramとnote両方に同じ文を掲載していると、両方を直さねばならない。これはなんという手間だろう。耐え難い事実だ。よって私は直近の掲載のnoteの方の修正に目を瞑った。愛とはなんだろう。

 拙いなりにもこれほど文章を書いているとよく勘違いされるのだが、私は普段あまり本を読まない。それどころか映画も見ない。旅行にも行かない。音楽も歌詞にはそこまで思い入れがない。作詞は苦手。おしゃべりは、まあ好きかな。ぐらいは感じで自分では思っているのだけど、おそらくそれもというか、それこそが勘違いなのかもしれないとも思う。

 その人がどういう人間なのかということは、食生活や食事の時の食べ方を見ていると大体わかると思っていて(もちろん例外はいる)、例えば一つのものを沢山食べるとか、色んなものをちょっとずつつまむとか。好き嫌いが多いとか、少ないとか、嫌いなものも状況によっては手をつけるか完全拒否するかとか。食べ方が綺麗か汚いかとか。で、私はどんなタイプなのかというと、色んなものを丸々食べる。嫌いなものは食べられるようになるまで食べる。綺麗に食べようと心掛けてはいるが結果的にこぼしたりする。つまりは非常に強欲なのだ。

 そこまでしないと満足しないのはおそらく知識欲も同様で、つまんだ程度のものは覚えてないか数えていないのである。確かによくよく思い返してみれば、半年に一度くらい急に本を読み漁ったり、大学の夏休みに蔦屋から20本ぐらい映画を借りてきてずっと見ていたり、好きな音楽を語るときにちゃんと歌詞まで含めて褒めていたり、つまりはやっていないのではなくて自分なりに自信がないだけであった。実にステレオタイプの日本人らしい思考回路だ。

 ちゃんと学んだり沢山漁ったりしなければ、作ったり語ったりしてはいけないのだろうか。答えは明白にノーだと思う。が、自分はそれに人生を捧げてきたという自負のある人が、上辺で語っているようなヤツにイラッとするのもまあわかる。
 これは音楽理論をわかっていなければ作曲できないのか、みたいな話に近くて、昔大学の通学中によく考えていたのが、ビートルズを聴かずしてビートルズらしい曲を書くことは可能か、ということである。らしいというのは、ビートルズファンが聴いて、こいつ絶対ビートルズ好きやんって思うくらいのもの。当時の私の結論は、可能、ただし偶然によるもの、というものであり、今も大方同意である。学ぶ=情報を集めるということは、合理的最短ルートの道であり、言ってしまえばそれでしかない。むしろ我流で多くの行き止まり遠回りを経験したほうが、そのエリアの地形を詳細に把握しているとは言えないだろうか。そうしていくうちに道と道とが繋がって、やっていること全てが一つの地図で見渡せるようになるかもしれない。
 
 こないだ読んだ”SNSでやるべき5つのこと”みたいな記事には、キャラクターを統一しましょう、イメージカラーを意識しましょう、語尾は揃えましょう、などと書いてあったが、それを読んで私は”うるせえ行こう”と思った。そういったものを参考にして統一感のある記事が増えるのであれば、統一感がないこともまたキャラクターになるに違いない。やはり文章を書いたり、曲を作ったりということをコンスタントに続けていると、自我の表出が凄まじく、それを自分で何度もチェックしていると、なんて売れなそうな人間なんだと絶望する。

 うるせえ行こう。私はできる限り素直にチグハグでいよう。


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