シンガポール政府の行政系アプリやサービスの先進性・ユーザ体験がすごい
この記事の背景
筆者は、2018年10月にシンガポールに引っ越して、大体3年くらいシンガポールに住み、現地企業で働いてきました。その間に、何度かビザ申請を自分でやったり、シンガポール人の妻の出産に2度立ち会い、子育てを通じて、おそらくは日本人駐在家族よりは深くシンガポールの行政サービスや社会保障制度に接してきました。
この3年間の体験を通じて感じたことは、日本の制度や行政サービスに比べてシンガポールの方がより合理的に制度設計され、格段にサービス・アプリが充実しているように見える点です。日本の10年以上(いやもっと先かも)は先を行っている感触があります。
日本でもようやくデジタル庁が発足し、法律や制度設計を改善するだけでなく、デジタル庁の優秀な人材が各種行政サービスを開発することで、日本での行政サービスが今後改善されていくことになるると思います。
そんな時期に当たって、同じアジアでも先進的なシンガポールではどういう行政サービスが提供されているのか、日本の人も知ってもらいたいと思い、直近で個人的に体験したシンガポールの行政サービスが優れている点を記事を書こうと思いました。デジタル庁や日本の行政・医療システムに携わっている方の参考になれば幸いです。
(補足)シンガポール行政用語
本記事に登場するシンガポール行政の用語を事前に解説しておきます。本文を読んでいて用語の意味が分からなかった場合は以下を参照ください。
CPF・・・Central Provident Fundの略。シンガポール政府が運営する年金基金。日本とは違い、市民個人が自分の年金を積立する形式。年金口座・医療費口座・一般口座(住宅・教育)など目的別に口座が分かれている。https://www.cpf.gov.sg/Members/Schemes
MediSave・・・CPFの医療費用口座。シンガポール人の場合、出生登録の際に自動的に口座が作られる。政府からの医療費補助はこちらの口座に振り込まれ、政府が指定した医療費支払いの場合に口座から医療機関へ支払いできる。
NRIC(National Registration Identification Card)・・・シンガポール国籍および永住権を持つ市民一人一人に割り当て割れる市民識別番号。日本のマイナンバーに相当する。年金・税・医療など行政サービス、銀行口座など民間の金融サービスは、全てNRICで個人を識別しており、情報を紐づけているため、各種手続きをNRICでシームレスに繋げられるようになっている。
GovTech Singapore・・・シンガポール政府の行政サービスを開発するIT組織。正式名称は Singapore Government Technology Agency。日本のデジタル庁に相当。首相直轄のIT組織として正式な発足は2016年。
Singpass・・・NRICの管理サービスおよび行政系サービスの認証サービス。シンガポールの主に行政サービスでNRICを使って認証する場合、必ずSingpassでSingle Sign Onが可能。TwitterといったSNSのアカウントでWebサービスにログインできるのと同じ仕組みを行政サービスに適用している。
HealthHub・・・シンガポールの公立病院の診察予約、医療費の支払い、診察記録などを確認できるWebサイトおよびスマホアプリ。子供もしくは要看護な親の情報も確認できます。
良かったユーザ体験(1)スマホアプリで自分と子供の診療予約・支払い・診療記録や検査結果の確認ができる
ここからは直近で実際に私が体験したシンガポール政府のサービス・アプリのうちユーザ体験が良かったと思うものを紹介していきます。1つ目は、公立病院用のアプリ HealthHub です。
これまで妻の行動を見る限りでは、シンガポール人は日本人より公立病院で医療サービスを受ける機会が多いようです。シンガポールの公立病院では、事前診療予約から、診療費の支払い、診療内容や結果の確認まで多様な手段でサービスを受けられる環境が整っています。
年配の方は診療予約や支払いは窓口でやりたいでしょうが、病院としては大勢の人が窓口に並ばれても困るのでなるべく予約や支払いは端末で行ってもらうように誘導をしています。
また、予約や支払いはシンガポール政府が運営する HealthHub というスマホアプリおよびWebサイトで同じことができるので、病院で並ばずに HealthHub でやるように病院内で広報しているポスターをよく見かけますし、病院スタッフからアプリでもできると促されたことがあります。
私が HealthHub アプリが特に優れていると感じる点は、患者が自身の診療や検査の結果を閲覧できる点です。さらに事前に登録した扶養対象の子供や親の記録も確認できます。
先日、私が妻の HealthHub の使い方を見て驚いたのは、子供の定期検診の際に、先生が手元のPCで病院のシステムを通じて過去の診療記録を見ていると、妻は手元のスマホで HealtHub アプリを開いて直近の検査内容と結果を先生に説明し始めたことです。
その先生によると先生が見ている情報と患者がアプリで見ている内容は、基本的には同じものだそうです(患者に不要な詳細は省いている可能性はあります)。日本であれば、スマホアプリを通じて診療情報を提供するような仕組みはないでしょうし、その場で先生に聞くか、自分で母子手帳なり紙にメモを書いておくしかないと思います。
さらに驚いたのはスマホアプリでの情報提供がほぼリアルタイムだという点です。午前中に子供の検診で血液検査をしたところ、2時間で結果が出ますと言われたので、病院内の休憩スペースで軽食を食べて結果を待つことにしました。1時間半ほど経過したところ、妻がスマホアプリを見て、「あ、結果が出てるね」と言ったので、二人で内容を確認した後、しばらくしてナースから呼び出しがあり、医師から検査結果の説明がありました。
妻が当たり前のようにやっていたので、その時は気づきませんでしたが、よくよく考えてみればナースに呼び出される前に患者が医師と同じ情報を参照でき、検査結果の内容を知ることができるのはすごいことであり、日本で同じことはあり得ないと思います。
良かったユーザ体験(2)スマホで自分の年金口座や子供の医療費の支払いが確認できる
冒頭、用語の説明でシンガポールの年金制度には用途別の口座があり、MediSaveという医療費用の年金口座がある旨は説明しました。この口座は子どもが産まれ、出生記録を登録した際に作られ、政府から医療費補助金が振り込まれます。最近、子どもが検査を受けた際にMediSaveからも支払いを行いました。
この時、私のSingpass(シンガポールのマイナンバーにあたるNRICを管理したり、政府系サービスの認証に使われるサービス)に「娘さんMediSave口座から医療費の支払いを行いました。確認しますか?」とモバイル通知があったので、タップしてみると「CPF(年金サービス)に接続します」と表示され、CPFのWebサイトにリダイレクトされました。この時、私はSingpassのモバイルアプリにログイン済みだったので、ログイン済みのセッションを使い、Single Sign Onの仕組みでCPFのWebサイトにログインして、娘の医療用年金口座から診療費の支払いをした旨の記録を確認できました。
この体験で驚いたのは、自分と娘のNRICは出生時に登録されているので、NRICを通じて家族の年金情報がつながっており、Singpassという認証サービスを起点にして政府のサービスがシームレスに連携できるようになっている点です。
私がシンガポールに引っ越しした3年前は、マイナンバーの普及度合いが低く、家族の年金や医療費支払いがつながっていること、政府が民間企業の認証サービスのようなSSOの仕組みを提供することは想像にできなかったので、シンガポールでは当たり前に行われている点に驚きました。
優れたユーザ体験を実現するシステム上の仕組み(筆者の想像)
ここで、普段はデータエンジニアをやっており、Webやモバイルの専門家ではない筆者が多少妄想込みで裏側の仕組みを想像したいと思います。
シンガポールでは、全ての市民と永住者はNRIC、永住権のない外国人はFINという識別番号が割り当てられており、医療や年金に関係する情報は全て個人識別情報に紐づける形で政府のデータベースに登録されています。
NRICやFINを持つ市民は政府の提供するSingpassというシンガポール政府が提供する認証サービスをモバイルアプリもしくはWebサイトという形で利用できます。医療関係であればHealthHub、年金関係であればmyCPFというアプリもしくはWebサービスを利用する際は、一度、Singpassにリダイレクトされるので、Singpassにログインしてセッション情報を政府系サービスに利用することでSSOによるログインが可能となります。このシステム連携の仕組みがあることで、スマホアプリとWebサイトの両方で政府の提供する医療情報や年金情報が利用できるようになっています。
日本でも、企業内のシステムでをSSOが導入されていたり、GoogleやTwitterなどテック大手のアカウントを使ったB2Cサービスへのログインを行う機会はあると思います。よって枯れた技術ではありますが、日本で行政サービスでSSOの仕組みを使って、一元管理され、集約された情報にアクセスする体験を得ることはほぼ想像できないと思います。しかし、シンガポールでは当たり前のように実現されているのを見て驚きます。
日本とシンガポールの行政ITサービス開発の体制の違い
Gov Tech Singapore については以前にも記事に書きましたが、2014年のSmart Nation Platformという電子政府をより拡張したプロジェクトを実現するため、首相直轄組織としてGov Techが2016年に設立されました。日本のデジタル庁より5年先に政府の統括的なIT組織が立ち上がったことになります。ITの世界は日進月歩の世界ですので、5年の差は大きな差となって現れてきます。
政府のデジタルサービスの先駆けは、2011年に発足したイギリス政府のGoverment Digital Servicesなので、シンガポール政府のGov Tech Singaporeはイギリス政府より5年遅れ、日本政府のデジタル庁は10年遅れで発足されたことになります。この辺は言語の壁によって英語圏での最新の状況をキャッチアップするのは難しいのでしょう。
Gov Tech Singaporeの提供しているサービスの技術水準は、これまでの日本政府の実力であれば到底実現できない物だと思いますが、おそらくはメルカリ、LINE、Yahoo! Japanといった日本のテック企業であれば実現できる水準の物だと感じます。
言ってみれば、5年前にデジタル庁を作り、メルカリ、LINE、Yahoo! Japanの中の人を100人くらいスカウトしてデジタル庁に入庁させて、合理的にプロダクトロードマップをたてて、地道に機能改善を続けてきたのがGov Tech Singaporeだと考えると、シンガポール政府の先見の明や、合理性や着実に実績を上げてくる点に感嘆しました。
実際、シンガポール政府は市民から国家的エリートを育成して、相当な高給で官僚のポジションに採用しているのは有名です。またGov Techもさながら米国のテック企業のように広報や採用を兼ねた技術イベントを開催しており、民間のテック系のスタートアップのような組織を目指して運営されているので、上記デジタル庁の比喩表現も当たらずも遠からずといったところだと思います。
おわりに
(シンガポールと日本では、国の規模、政治体制など大きな違いがあり、単純な比較ができないのですが、筆者に社会・政治制度の知見が少ないため、ここで記事を締めさせていただきます。)
本記事では、筆者が直近で体験した行政サービス・アプリのうちユーザ体験が良かったものについて、社会制度や政府のIT組織の違いなどついて触れてきました。
もし、シンガポール政府の Gov Tech が日本のテック企業のエンジニア達をデジタル庁に集結させたような物だと捉えることができるなら、日本も今後のデジタル庁が着実に実績を上げて行けば、10年後には日本でも今のシンガポール政府のような生産性の高い行政サービスが実現できているのかもしれません。
そのためにはデジタル庁職員の頑張りだけでなく、法律面や制度設計での後押しが不可欠だと思いますので、この点は政治家の先生方にも日本の明るい未来のため、尽力いただきたいと思います。デジタル庁は日本にとって重要なプロジェクトですし、一人でも多くの日本の市民が快適な生活をできるよう、デジタル庁職員の皆様には頑張っていただきたいと思います。シンガポールより応援させていただきます。