自由、元来の意味を見せて【東京事変】
誰かがカラオケで歌うのを聴く度に泣ける曲がある。酔っているからかと思っていたが、ドライブ中にシラフで聴いても泣いた。ぶっ刺さっているのだ。メンバーが一堂に集って祝いの宴を囲むMVの映像がまた、楽曲のメッセージを立体的に立ち上がらせてくれてこの上なく良い。
違和感にまみれた社会
毎度ここで目頭に来る。“ぺてんな世の中”とはなにか。政治に国際問題に環境問題、ニュースを見れば湧き上がるよりどりみどりの違和感。そして生活に染み入ってくる空気は、資本主義社会のルールに則った新自由主義の白々しさに満ちている。まっとうな物事などどこにも存在しないのではと思えてくる、息苦しいこの世の中のことでなくて何なのか。
息苦しさの理由
新自由主義とはなにか。2024年のベストセラー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の中で、三宅香帆さんはこうまとめる。そして自身も、その価値観を少なからず内面化している事実を受け止めている。社会に通底するルールがある以上、それに順応するのが世渡りで、チューニングに失敗すればただ個人が生きづらさを被る。
集団から個へ。豊かな時代の大きな共同体は解体され、個人が小舟で世を渡らねばならない現代。もちろん、地域や企業といった共同体のもたらす安定と不自由はセットであり、個の時代にようやく手に入った、人生を自分で決められる権利の価値はとてつもなく大きく尊い。
だけど現在のような、自己責任を人質に取られた「自由」は、どうも歪に思えてならない。必死になって自分で自分の面倒を見ること、富を得て誰にも頼らなくて良いようにすることが、本当の意味での「自由」だったのだろうのか?
自己責任論には奥行きが無くすぐに行き詰まる。苦しい状況に追いやられたとき、原因の所在は個人の内側ではなく、社会のハード側かもしれないと考えてきただろうかと自問する。その発想の余裕すら与えられない世の中こそがまさに、「簡素な真人間」に救いのない社会なのではないか。
世代とコミュニティ
もっともらしく言葉を引いてみたが、そうは言っても実際の所、ぺてんのない世の中をただちに作る、ルールを根本からひっくり返すことは困難だ。資本主義社会は突然終了しないし、社会の総体とは、各世代を生きてきた異なる価値観を持つ他者の集まりであるから。
私たちにできるのは、会社でも家庭でも、まず自分の属するコミュニティの中から、手が届く範囲で"ぺてん“に抵抗するしかない。世代間にはデフォルトとして生きてきた物語の相違があり、理解と断絶の分かれ道は、コミュニケーションに対峙する姿勢にあると思う。不誠実な対話であっては、根は悪い人でなくても消化不良を起こした感情が牙を剝く。正論で相手に詰め寄ることは正義ではないし、その“正論”を裏付ける思考もまた、自身の生きてきた時代の価値観から逃れられない。まず互いが違う生き物である前提を飲むこと、それが対話のスタートラインだ。
地味な日常も、祝いの宴も
次世代に「真っ当に生きろ」と言える新型社会、それを非暴力で実現するための、一人ひとりの小さな変革の積み重ね。「緑酒(りょくしゅ)」とはよい酒、祝いの美酒のこと。地道でタフな毎日を支える一杯と、節目を共有し祝うハレの日の緑酒。酒と食事を囲って集う宴の席は、断絶に満ちた世界で今もなお、人と人の縁をつなぎ合わせるハブの役目を担ってくれる。コロナ禍の遮断を経て、私たちはそのことを身につまされた。
この曲は人間讃歌だ。個人が小舟に分断されたようでいて実際、あらゆる世代が乗り組んで航行していく社会という大船が、これから向かわなければいけない方角と、そこに至る日々のミクロな営み。その両方を肯定してくれる、全世代へ向けられたまっすぐなエールだ。新しい年の契機に今年も、背筋を伸ばして受け取った。