240826 あいさつを良く…は何のために?
夏の終わり 職員室でもこれまでの学校の取組を振り返る
児童アンケートや保護者アンケートの結果をもとに
学校の取組を振り返る「学校評価」の振り返り
保護者アンケートでは概ね良いという結果が出ているのに
児童アンケートの結果が芳しくない項目が目立った
そのひとつ「あいさつができているか」といった項目
担当部会で結果を受けて検討する部分で話題になったのは
・あいさつって何で良くしたいんだろうね
・良くしたいと思って評価するのは大人
・「良いあいさつ」って一体どんなの?
・大人(学校職員)のあいさつの評価はたいてい低い
そんな話題が毎回あがる
「あいさつを良くしなきゃ!」って思うのは大人
そして、その目的は何なのか…というところは意外と曖昧
出てきた意見を話したり聞いたりしながら言葉にしたのは
「あいさつってコミュニケーションの入口でしょう?」ということ
そこで話題にした、ボクの体験をつらつらと書いてみる
あいさつは自分からしてみるけど…
あいさつはコミュニケーションの入り口と言っている手前、
校内では子どもたちを見かけて自分から声をかけることが多い
自分からあいさつしているということなのだけど
別にそれを強要しようとは思っていない
だって、自分からあいさつする なんてエネルギーの要ることでしょう?
「自分から先にあいさつしよう!」というのは
あいさつの方法の押し付けなんだと気づく
実際、ボクだってそれさえ避けたいようなテンションの低い日だってある。
そうか。調子のいい日にそうしているということは
調子のいい日は自分からあいさつできるといいね…というモデリングなのか
あいさつしても心折れる時もある
そうやってけっこうな人にあいさつするけど
返ってこない時だってあるんだよね、けっこう。
そして続くと心も折れる。
そこで怒ったり注意したりしたくなるけど、それは筋が違う
あいさつを返したくない理由が何かある のだろう…
そういう気分じゃないんだろうな、と思えるようになったのは最近のこと
話したくもない
体調が悪い 気分が悪い
そもそもボクを好きではない etc…
そういう距離感の表明なのだろう「無視」って
だから「あいさつされたら必ず返そう!」というのも
あいさつという行為の強要 なのだろうなと思う
あいさつは「おはよう」だけ?
朝のあいさつを学校では力を入れている
だけど、「こんにちは」だって「さようなら」だってあいさつだ
さらに言えば、こちらのあいさつに対して
「おう」とか「あ」でも、やりとりは成立する
あいさつって言葉じゃなくて行為のひとつなんじゃないか?
なんてことも考えた。そうだよ。
「元気?」「どうよ!?」だっていいわけでしょ。
言葉じゃないと考えると、ハードルだってぐっと下がる
あいさつして嬉しいとき
「おはよう」でも「元気?」でもいい。こちらが尋ねて
「あ」でも「お」でも返ってきたら
コミュニケーションの始まりじゃない
まして、これまで何度かあいさつや声をかけてみて
無視されたり「ふんっ!」とされてきたりした人に
「あ」でも「お」でも、傷つかない反応されたら
めっちゃ嬉しいじゃん!
あいさつするってコミュニケーションの始まりなのか
そして、するだけでなく戻ってきてこそのあいさつ
「やりとり」が成立するコミュニケーションの第一歩なのねー
そう、やりとりが成立するから嬉しいんだ
あいさつされる ということ
翻っていうなら、あいさつは自分からできないとき
誰かからあいさつされたら…
腹の立つときや元気のないとき、返事さえできないときもある
だけど、あいさつされるということは
あいさつした人は、自分を相手のひとりとして認識しているってこと
…って考えたら、めっちゃ嬉しいことじゃないかと思うわけです
ちゃんと自分はコミュニティの輪の中にいるという実感 だよなぁ
あいさつの意味を再考する
あいさつってそれをできることが目的じゃなくて
あいさつの意味や意義を実感して、
やってみよう!と思ったり、できたらいいよね、と実感できること
ではないかな…と思っている。今のところ。
端的に言うならば
あなたと私のコミュニケーションの第一歩
なのだろうなと今は思っている
だから、あいさつが悪い!と言うのは
その環境のなかでの人と人との関係性が冷えているのかもしれないし
コミュニケーションをとるための障壁があるのかもしれない
表面的な「あいさつ運動」を展開しても
声は出るかもしれないけれど 反応があるかはわからない
あいさつという行為だけをよくしても
期待するあいさつは生まれないんじゃないかなと思う