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レベルファイブ年代記 1997年~2003年

レベルファイブの1997年~2003年の年譜です。 次年度以降もどんどん追加していきます。


1997年~1998年10月

・1998年10月以前
「自分が納得できるゲームを作るには会社の  一員では限界がある」という理由から、日野社長はSCEの佐藤明氏に直談判してSCEのセカンドパーティー化を志望するも、佐藤氏から会社を設立することを勧められ、レベルファイブ起業を決意する。

また日野社長は29歳(1997年)にリバーヒルソフトを辞めている(この時点では約束された開発案件などの仕事はなし)。この段階でソニーに企画を売り込めば何とかなるという考えもあり、実際に連絡を取ったものの、「会社組織の企画じゃないと対応できないので、会社を設立してほしい」と対応されている。

そうした事情もあり、1998年10月に有限会社レベルファイブを福岡市中央区大名2丁目に設立する。登記の段階でのスタッフ名は11人。このメンバーにはレイトン教授の音楽を手がけた西浦智仁氏やダーククラウド、妖怪ウォッチのキャラデザを手がけた田中美穂氏がいた模様。

なお会社設立は1作目の企画案にソニー側からOKが出た段階で設立された。それまで(98年5月〜10月)のL5の前身となる開発者集団の企画会議は、1時間300円程度の公共施設などの会議室を借りてグラフィックの確認やサウンドチェックを行っていた。なお開発の現場作業は各自自宅で行う宿題方式だったという

2000年12月

2000年12月 ダーククラウド発売。
国内外累計100万本以上出荷するヒット作となる。 このソフト開発は過酷で、特に日野社長は夜中3時まで働き、オフィスやカプセルホテルで寝泊りする生活が続いた。 また、ソニーから貰った開発費以上の金を製作につぎ込んだという。

2001年10月~12月

2001年10月 レベルファイブは有限会社から株式会社に変更

2001年年末 ドラクエ8開発会社のコンペ用のプロトタイプを開発開始。
そのプロトタイプの出来から、ドラクエ8の開発会社はレベルファイブに決定。なお、このプロトタイプの制作期間は2〜3週間だった模様。社員数30人超の頃、スタッフを説得し、休暇を潰して開発した。

なお、ドラクエ8の開発をレベルファイブは全て自社で行うことに拘り、そのため毎年30人規模の採用を行い、開発後期にさしかかると社員数は100人を超える規模になっていたという。この社員増に合わせてオフィスも設立当初の1フロアから4フロアに拡大したという。

ドラクエ8の開発時、当初はゲームはやりこむ要素が多ければ多いほど良いという日野社長の考えは、堀井雄二氏のそういう要素を入れる場合は慎重にすべきだという考えを知ってから、ライトユーザーを呼び込むことまで考えていることが理解でき、目が覚める思いだったという。

「この堀井雄二氏の考え方を知らなければ、今やっているようなディレクションは出来ていなかったはず」と日野社長は述懐している。つまりドラクエ8の開発が今のレベルファイブに至るターニングポイントの一つであると考えられる。

2002年9月~11月

2002年9月 トゥルーファンタジーライブオンライン発表。
当初は2003年発売予定だったものの、延期を重ね2004年6月に開発中止を発表した。ある意味有名な作品。

2002年11月 ダーククロニクル発売。
国内外で数々の賞を受賞する。
なおこの作品のキャラクターデザインを担当した園部淳氏は後にダンボール戦機の無印〜Wのキャラデザ、無印〜ウォーズのLBXデザインを担当することになる。

なお、ダーククロニクルはメトロワークス株式会社の開発ツール「CodeWarrior for PlayStation 2」と「CodeWarrior Analysis Tools for PlayStation 2」で開発された。

2003年8月

2003年8月 福岡のゲーム制作会社3社主催による初のイベント『GAME FACTORY FUKUOKA 2003 (GFF 2003)』を開催。
これをきっかけに2004年4月にGFF発足。この団体は九州・福岡のゲームソフト制作関連会社などによる任意団体である。

参考・引用資料

参考・引用資料
「日本ゲーム産業史 ゲームソフトの巨人たち」
「ファミ通 2018年11月8日号」

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