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レベルファイブ年代記 2004~2006年

レベルファイブの2004年~2006年の年譜です。 次年度以降もどんどん追加していきます。


2004年1月~5月

2004年4月 九州・福岡のゲーム制作会社8社により、九州・福岡のゲーム業界のさらなる発展を目指す組織として 『GFF(GAME FACTORY'S FRIENDSHIP)』を設立。
GFFと九州大学が「産・学」共同による情報交換・優秀な人材育成・研究開発を行うために連携協定を締結した。

2004年6月~10月

2004年6月 「トゥルーファンタジー ライブオンライン」の開発中止を表明。
中止の理由は、「斬新なオンラインゲーム体験を皆さまにご提供できる状態への進捗がいまだ見込めず、遺憾ながら今回の開発中止を決定いたしました」としていた。

なお、トゥルーファンタジーライブオンラインに関しては、スケジュールがうまく回らず,プラットフォームであるXbox自体の状況なども鑑みた結果,マイクロソフト側からレベルファイブに対して開発中止の宣告がされた。

2004年11月~12月

2004年11月 ドラゴンクエスト8発売。
初の完全3Dドラクエとして発売された本作は国内370万本、全世界490万本の売上を記録する大ヒットソフトとなった。

2005年1月~12月

2005年 長野拓造氏レベルファイブ入社。
ローグギャラクシーのCMを見て、自信をもって自社の作品を世の中に発信している姿を見て、楽しんでモノづくりをする会社だと思ったことから、「この人のもとで働きたい」と感じ、レベルファイブへの入社を決める。

2005年12月 ローグギャラクシー発売。
良くも悪くも有名な作品。
しかし先述のように、この作品のCMがきっかけで長野拓造氏が入社をしているため、ローグギャラクシーの制作は実はレベルファイブの歴史において大きなターニングポイントとなっている。

もしローグギャラクシーが制作されなければ、長野拓造氏はレベルファイブに入社せずレイトン教授、イナズマイレブン、妖怪ウォッチといった数々のヒット作は成功しなかった可能性がある。 そういう意味ではローグギャラクシーの制作は大きな意義があったと言える。

2006年1月~8月

2006年5月 “福岡を世界が目指すゲーム産業都市にする”を合言葉に「福岡ゲーム産業振興機構」をGFF、九州大学、福岡市の3者により設立。
この機構は官民一体となり"世界的ゲーム都市"を目指すための3つの事業(人材育成、市場開拓、広報)を行なっている。

2006年9月

2006年9月 白騎士物語 発表。

2006年10月

2006年10月 パブリッシャー事業参入を表明。
初のパブリッシャータイトル「レイトン教授と不思議な町」を発表。
また2024年9月現在、レベルファイブでお馴染みのあのロゴデザインも発表された。

レベルファイブは当初、現在のようにパブリッシャー一本で行く予定ではなく、デベロッパー事業を本業としてリスクを最小限に抑えつつ、自社ブランドで小規模かつ短期間での開発案件に乗り出すことを決めていた。
また当時の日野社長は社員にパブリッシングのリスクは一時的であると真顔で説明していたという。

この頃のレベルファイブのクリエイターの意識としては、プレステ3などのハイエンド機での開発を望んでおり、誰もDSでの開発をやりたがらなかったという。ただ当時のレベルファイブの企業体力では、当時3〜4億の開発費がかかるプレステ3用タイトルは厳しく、1億以内で開発できそうだったDS用タイトルしか道がなかった。

この頃のレベルファイブのクリエイターの意識である、PS3などのハイエンド機での開発を望んでおり、誰もDSでの開発をやりたがらなかったというのは、当時としては妥当。
当時はPS2の力が強く、任天堂のハードであるGBAは次いで2番目位の立ち位置なため、DSが PS3を追越す勢いになるとは予想してない人は多かった。

日野社長は先述の制作費のリスクを社員に説明して、DSでの開発を納得させたという。
また当時のDSはサード発タイトルがヒットしにくい状態であったため、日野社長は当時一般層にもヒットした脳トレ路線で勝負することを決意。
自身がファンである多湖輝氏の「頭の体操」を原作に持ってくることを計画した

しかし「頭の体操」の商標が他社によって登録されており、簡単には譲れないことが判明。
そこで日野社長は「頭の体操」のタイトルを諦め、本編ゲーム進行のために用意していた、オリキャラを使用したサブゲームのパートを膨らませメイン扱いにすることにした。
そうして「レイトン教授」が誕生した。

サブの部分をメインにするために、独自のレイトンの世界観を作ることになったレベルファイブだが、各種作業を進める中、アニメパート制作をどこに任せるかの課題が浮上した。
当時のレベルファイブはアニメ制作会社とのパイプがなく、半年間のスケジュールでアニメ制作が出来る会社を独力で見つけることが困難であったのだ。

そこで救いの手を差し伸べたのが、当時みずほ銀行でアニメやゲームなどに向けたコンテンツファイナンスを担当する部門を率いていた逸見圭朗氏だった。
氏は数社と交渉しピーエーワークスを発見。
レイトン教授と不思議な町のアニメパート制作をピーエーワークスに担当してもらうことになる。

なお逸見圭朗氏は後にイナズマイレブンや妖怪ウォッチのアニメ制作を担当するOLMも日野社長に紹介している。
氏には日野社長も本当に感謝していると述べている。
以上の点から、レイトンの制作、それに伴う逸見圭朗氏との出会いもレベルファイブの大きなターニングポイントの一つと言える。

なお、最終的には「レイトン教授と不思議な町」の制作費は1.5億円、宣伝費は2.3億円になったという。
つまり「レイトン教授と不思議な町」は制作費以上の莫大な宣伝費が投入されたのである。

2006年11月

2006年11月 ジャンヌダルク発売。
キャラクターデザインを担当した方の中にはダーククラウド、後にシンデレライフ、妖怪ウォッチでコマさんやふぶき姫等多数のキャラデザを手掛ける田中美穂氏がいる。

2006年12月

2006年12月 ドラゴンクエスト9を発表。
当初は2007年発売予定であったが、発売延期をしまくり最終的には2009年7月に発売された。

参考・引用資料

参考・引用資料
「日本ゲーム産業史 ゲームソフトの巨人たち」
「ファミ通 2018年11月8日号」

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