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自分の経験を伝えるのはとても大切だが…

僕の書いている内容は今までもこれからも個人的に思った考え方を吐き出しているに過ぎませんが実体験からこのような考え方になっていると捉えて下さい。

僕の場合はこんな考え方になっていますがこんな考え方はしたくないと思えるのもこんな考え方もあるのかと思えるのもその人にとってはプラスになるのではないかと思っていたりもします。

今回は自分の経験を特定の人に伝える事は少し押しつけ気味になっていないか?という事について考える機会がありましたので書き記していきます。

その他にもごちゃごちゃと書いてしまい12000文字ほどになりまとまりがありませんがすみません。

本当にまとまりがないですがさっと見直した程度で修正する元気はありませんのでこのまま失礼します。

文章力が無いので難しい漢字での表現が出来ないですしどうしようもないです…
そこに費やす時間があれば多少は上手く表現出来るのかもしれませんがその時間があるのなら妻に費やしたいという思いがあるのでご容赦下さい。

いいねもたくさんありがとうございます!

0いいねだったら継続して書くのは難しいと思いますので本当にありがとうございます。

序盤なのですが書き終えた時にどんな気持ちになったかなどの感想になっていますので中盤と書いている事が違うと感じられるかもしれませんがご了承下さい。

思った事を書いていく中で自分の気持ちに変化が現れたり自己解決したりする事も多くあり僕にとって良い事に繋がったと思った内容になりました。


本文の中で悩みなども新たに出ましたが結論から言うと人が発する言葉はある意味何もかも押しつけだと考えようと思う事にしました。

自己表現と言えば聞こえは良いのかもしれません。

表現はとても大切だと思うけど押しつけは良くないな…相手の気持ちを尊重するために押しつけないように…などと考え押しつけは良くないと決めつけていました。

押しつけという言葉は世間的には悪く聞こえますよね?

どうしても先入観で強引なイメージが払拭できなかったです。

今回の考え方としては押しつけと思われるのは押しつけられていると思わせてしまうようなタイミングでの発言だから相手は押しつけられている感覚になってしまってるんだと思いました。

議論など考え方の押しつけあいです。
議論中で多数の意見が出るので押しつけには感じられず議論して全員で良い結果に向かっていく必要な行為ですよね。

この議論なのですが1人の方が話をしている間はその話をしている人の考え方の一方的な押しつけだとは思いませんか?

議論の中での発言は押しつけではなく1人に対してなら同じ発言であろうとも押しつけと捉えられるんじゃないでしょうか?

間違った考え方かもしれませんが結局は大勢の中の1つなのか大勢ではない1つだけの意見なのかという違いはあるものの言っている事は全く同じなのであれば押しつけに変わりはないのかなと思うようになり、それなら日常会話の中の言葉は常に押しつけあいばかりしていると考えても良いのではと思ったのです。

何もかも押しつけあいなんだと思う事が出来れば遠慮した言葉だろうが気遣った言葉だろうが押しつけに変わりません。

何もかも押しつけなのであれば本音言ってもいいじゃんと思ったりもしませんか?

ここから先に知人の悩みについてどう対応したのかを反省を踏まえて書きました。

反省点は複数ありますがとても重要な反省点として押しつけがどうとか、本音がどうとかは問題じゃなかったんだなと思った次第です。

すべては言葉を伝えるタイミングでした。

言葉を選ぶ事も重要なのですがどれだけ考えた言葉であろうとタイミングがおかしければ台無しになってしまいます。

あまり気の利いた言葉が言えない人でもタイミングさえ良ければとても励みになるだろうし、気の利いた言葉を考えられても伝えたくても伝えられなかったりタイミングが怖くて言い出せませんよね。

近しい人だからと僕の経験を元に一方的な発言になっていないかと思い直したところ相手の気持ちや現在の状況を深く理解した上での発言ではなかったと反省する部分がありました。

タイミングがおかしく相手にとっては押しつけられているように感じてしまうだけだったのではと思ったからです。

今の現状を打開して楽しい幸せの未来のためにとの発言でしたが現状を打開出来る力がある人でもあります。
打開出来るのにそれが出来ない現状が続いているという事は僕の発言よりも手前の部分で思い通りにならないなと苦しんでいるのだと思います。

人には様々なしがらみもあり頭ではわかっていても様々な感情や置かれている立場により身動きが取れない事もたくさんあります。

身動きが取れない理由がしっかりと理解出来ていて現状の打開は非常に困難である事が僕も考えればわかる事です。

言っている内容は間違っているとは思いませんがそれがわかっていても打開しようがない相手に相手がすでに考えているであろう事を伝えたところで何も変わらないし、むしろストレスになってしまう事だったのではと思っています。

かと言ってそのまま見過ごすのはいやです。

見過ごすのはいやだけど発言はストレスを与えてしまいかねない。

ではどうすれば良いのか?

その話には触れないけれど無言で昨日よりも今日の方が良い気持ちでいてもらえるようにあたたかく見守るのが良いのか?

どんどん話をしてプレッシャーを与える事により良い方向へ向かってもらえるようにすべきか?

冗談まじりに会う度に話題にするか?

本気で向き合うまで本気でぶつかるか?

向き合う必要はないんじゃないのという態度をとるか?

ストレスを吐き出しやすい相手だと思われながら一緒に乗り越えていくか?

一月後まで連絡せずに一月後どんな現状か問うか?

相手の性格もかなり知っているので限りなく近い正解のようなものは探し続ければ辿り着く事は可能です。

僕の1番の策は相手の気持もとてもわかるので責めもせずマイペースでのんびりと…
責めもせずというのは僕には責めるだけの事を出来ていない現状なので人にそんなに強く言えるような立場ではないし…という守りの部分が出てしまっています。

責めるという表現とは違う意味合いなのですが相手にとってみればしっかり向き合わなければ…今のままでは…こう思わせる発言なので自分を責めさせてしまうので責めるという表現にしています。

僕が強く言えないだけで今の自分にはこれくらいしか言えないからとこんな発言しか出来ないのであれば相手にとっても助言にもならないんじゃないかという答えに辿り着いてしまいます。

言い過ぎると相手からも言いたくない言葉も出てくるかもしれない。

相手によってどんな言葉や態度を示していけば良いのかは変わります。

本当に良くなってほしいという思いがあるのなら前置きした上で自分のありのままの本心を伝えても良いのかもしれません。

それを相手がどう捉えるのかはその時々の状況に左右はされるし普段はそんな事言わないけれど本心でこうなってほしいという思いがあるから隠さずに自分の意見をぶつけるのはとても大事な事に思います。

例えその時自分が出来ていなくても一緒にそうなって行こうという思いは本当なのでそれが相手にとって現在難しい事でも気持ちの中で何かを思い続けるきっかけになるかもしれない。

嫌われるかもしれないとか出来ていないから言わないというのは問題を解決していくという前提の中ではすべてが悪いわけではないけれど邪魔になる部分が多いのかもしれない。

その他にもたくさん考える事はある。

この思いを伝えるのも自己満足でしかないのこもしれない。

言っちゃいけないタイミングなどもたくさんありますよね。

では言って良いタイミングさえ間違わなければ言うべきなんでしょうか?

僕は言っていいタイミングに言える勇気があるのだとしたら良いと思いました。

言っていいタイミングというのは想像以上に難しく最重要な部分です。

その内容がとても重ければ重いほどに軽はずみに触れられる問題ではないんだろうな…

簡単に分けると

いろいろ言っても大丈夫な人

いろいろ言っちゃいけない人

言っちゃいけない人にズバズバ言うと余計に傷つけ事態は悪化します。

では言わないのか?

言わなくても改善されるのであれば1つの手だと思います。

だけどとても長いトンネルから出てこられるのはいつになるのか?

果てしなく続く地獄のような日々を長く体験させてしまうかもしれません。

言っちゃいけない人にも言っていいタイミングは必ずあるし言うべきなんだと思っています。

行動や態度以外でベストなタイミングで伝えられたら意欲的に動けるようになるんじゃないかって思っています。

ベストなタイミングで伝えられた事だけでは難しくてそれについて考えて悩めるのであれば閃きは近いのかなと思っています。

考えて悩むということはとても良い事だと思うようになったのでこう思うようになりました。

考えられるようなタイミングでの発言はとても良いですしその発言された言葉についてネガティブにも考えてしまうてしょうが考えている時点でネガティブではないと僕は思うようになっています。
悩むということはもっと良い方向になりたいとかも思う気持ちの表れなのでこれってポジティブです。

あんな事なぜ言われた…自分の事なんか何も考えてくれないと思われるタイミングでの発言は避けたいです。

このタイミングさえどうにか見極められたら悩みに対しての発言の受けとめ方が変わるきっかけになって自力で考え出すんでしょうが…

良かれと思っての発言に変わりないのにどうもわかってくれないとなるのは明らかにその言葉のタイミングが間違っているからなのかもしれません。

普段からあまり悩まない方であれば軽く言っちゃうだろうけど普段から悩みまくってる人は一時的に凌げたとしてもその考え方を生涯維持し続ける事など不可能です。

持って生まれた性質なところもありその真似がすぐに苦痛へと変わり出来ない自分を責めるきっかけにもなります。

根治になっていないのではと思うのです。

全然悩まない明るい人にこの件を考えて悩んでくれとお願いしたり悩む事の大切さを伝えてもストレスだろうし悩む人を悩ませないように助言し続けるのもストレスかもしれません。

省略しますがこんな事を言い出したら何もかも押しつけであり何も出来ないになっちゃいますよね…

人それぞれ考え方はたくさんあるので協調出来ない人にとっては押しつけに感じてしまうものなのだと思います。

押しつけに感じるというか何もかも個人で考えた事を発言するのだから押しつけという表現が正しいのかもしれませんね!

その押しつけてみた考え方を理解してくれる人が多いからこれは押しつけじゃないと考えるのは今文を書いている間に疑問に感じました。

常識とされる内容だって押しつけですよね?

ただ共感してくれる人が多いだけなんだこれは…

共感されにくい意見は何も考えない単なる押しつけ…

共感されにくい人々にとっては多数派の共感を押しつけまくられている世の中なのではないでしょうか?

どれもこれも均等に個人の押しつけなんだろうな…

何を言おうが押しつけなのであればすべての人の発言が押しつけなのだから自分の気持ちを押しつけたって悪くはないですよね。

問題は押しつけるタイミング…

強めの発言やその逆の頑張らなくていいなどの発言もタイミングさえ合えばどんな気持ちの押しつけであれその人にとって今最も必要な言葉であるのならば言うべきなんだろうと思いました。

今回の発言はそのベストなタイミングじゃなくて悩みをさらに悩ます時間を増やすだけの発言になってしまったと思っています。

本音をぶつけるタイミングだけは間違うと取り返しがつかないほどのダメージを与えかねません。


本音なだけに強い発言にもなるだろうし頑張らなくて良いというような優しくも甘いととらわれがちな発言もジャストとまではいかなくても出来る限りのベストのタイミングをじっくり待って発言するのが良さそうですのでこれを頭に入れて生きていきます。

本音ではないけれどその人にとって今必要な言葉を発言していく行為はとても大事なのではないでしょうか?

その時々の寄り添った発言で悩みが一時的に軽くなるのなら無駄ではありません。

その間だけでも安らぎがあれば本題について考える余力も出てくる時期が増えるような気がします。

本人にとってどうしようもない悩みや人間関係での修復不可能な悩み…

例えば高校時代の彼氏でもう会うことはない

職場での対人関係で辞職したのでもう会うことはない

愛する人を失ってしまった

愛する人にきらわれた

家族が離婚した過去がある

家庭環境がよくない

学校でのけものにされている

たくさんありますが過去の事でもう終わっているので解決しようがない

現在進行系だが解決しようがない

この現在進行系だが解決する気が全くしないという問題では今過ごしている環境が変えようもなくて厳しいような事が特に多そうです。


僕は平凡な家庭で生まれ育ったとは到底言えません。

どんな環境でどう過ごしていたかなどはまたの機会に書こうと思えたのなら書かせていただきます。

一般家庭では理解し難い育ちだと思います。

そういった経験があるので家庭環境での苦しみについては想像上の理解を超えていると思います。

きっといろいろなプレッシャーがある言葉を受けたりしてるだろうけれどプレッシャーを与えてしまった発言だったと後悔している親兄弟もたくさんいてると思います。

後悔するけどまた言ってしまうんです。

その時の僕はそんな事考える余裕などもちろんありませんでした。

心の底では本人のためにと思っているなどと感じられなかったです。

僕のところは思っていてくれたんだろうなと少しだけ思いますがそれでも無理して思っています。今でもです!

本人のためではなくあたられていただけだしそもそも自分には少しも興味がないと思っていたので。

そういう人も残念ながら一定数存在しますが最初からそうではなかった人が多いだろうしどうして良いかわからず思っている事と反対に向かってしまう人はいます。

タイミングをたくさん間違ってしまったり人生がうまくいかないなどそれぞれでしょうね。

冷たい言い方をするとそうなってしまっている現状では家族にはもう助けるどころか悪影響を与えられてしまいます。

そうなると信じられるのは自分しかいなくなるので最後の力を振り絞って環境を変えるしかないと思います。

過去優しかった思い出などあったりするのであれば自立してあの頃の家族に戻れないかやってみるのも1つの手なんじゃないでしょうか?

何もしたくなければそのまま帰らずに関わらないのも良いです。

物心ついた時から優しさなんか感じられなかったとしたらなぜ優しくされなかったかの問題点を整理して(金銭的に余裕がなかった、片親だった)立ち向かうのも良いかもしれません。

それでもダメだったとなるケースや諦めずにやったら笑顔が見られた、謝られたなど何か進展はあります。

どのような結果になるかはわからないけれどその結果によって過去との踏ん切りがついて心にぽっかり空いた穴が塞がるきっかけになるのかもしれません。

僕は数度チャレンジしてみましたが突然の妻の出来事があり妻を最優先にした結果疎遠になってしまいました。

口ではもうやだ!もう関わりたくないなど知人に漏らしています。

とても問題があって単純ではないけれど本心は理解し合いたいと思っています。

1回良いところまではいって仲良くしていたのですが妻の事があって数ヶ月してから思い切って甘えようと思ったんです。

当然わがままな事だったしいい歳した大人がなぁ…という思いがありました。

それでもこどもらしく甘えてみたいという願望や本当に助けて欲しいな…これ聞いてくれたら本当に自分の事大切に思ってくれているんだと思えただろうし強くそう思いたかった自分がいたんです。

結果は却下で疎遠なんですが(泣)

親にも変な意地がありもう連絡取らん!というような状態です。

何度かその時の感情を伝えようとして連絡が取れなかったので…

言い合いにはなったけど何歳であろうが僕は子です。

僕から言い出したわがままだったので子ではあるけど大人なのでこちらからその時の心境を伝えようと思いました。

それを完全拒否状態です(笑)

その後疎遠になった子の心配は意地より低いのかなと思うしかありません。

こどもだった頃は何もしてやれなかったからとその頃は想像も出来ないような付き合いが始まったから嬉しかったけど最終的には疎遠なので本心ではなく償いだけの気持ちを清算するためだけの無理しての行動だっただけなのかなぁとか考えてしまいます。


まだわかりあえるかもしれないのでチャレンジする機会があればしてみたいと思います!

とても気になる事情が無ければもうスッキリしていたのだと思いますがその事情があるので諦めるわけにもいかなくて…

話はあちらこちらと脱線してしまいがちで申し訳ありません。

いくつか読んでいただいている方の中には僕は一体何が伝えたいのかと理解していただいている方もいらっしゃるかもしれません。

テーマを変えても辿り着く考え方は似ている現象が起こっているような気はしませんか?

僕がこのような考え方になったきっかけは妻の事がとても大きいです。

堅い真面目な人生を送ってきたとは全く言えません。

それでも常識や一般的にこう考えないとおかしいでしょとか、

普通そんな事言わないって

あの発言はあの時ダメ

親に対してこうあるべき

人に迷惑をかけるな

こういう常識とされる内容が多数あり、当然な事だという思いの中生きてきました。

そういったあたりまえにとらわれた思考からかけ離れる出来事が起こり、

そんな狭い思考の空間…誰が考えても似たような答えにしか辿り着かない事に違和感を覚えて通常なら常識外の事なので考えるまでもないような事を考えるようになりました。

狭い思考と否定的にとらえられた方はすみません。

その範囲内でもまだまだ考える余地は底が見えないほどあるけれど常識外の事を排除しているのでその分狭くなるという事になります。

その中で考える事もとても重要だし王道だとも思います。

その範囲で考えられる人々はとても多いと思いますが日常化しすぎている人ばかりで良いのか?

こんな事を思うようになり書き記し始めた次第です。

僕の人生の中で知識不足な事も重なりましたが常識外の事が起こった。

この常識外の事が起こった事により本来考えもしなかったような事について考えて自己解決や一歩先に歩を進めているところです。

このような考え方は時にネガティブなだけだとか考え方がズレすぎているなどの批判もたくさん起こるんだと思います。

この問題をもう少し考えるとその時の人の気持ち次第ではネガティブに思えた事でもある人にはポジティブなのかもしれないという考え方が湧き出てきます。

一般的にネガティブと思われる内容だったとしてもそれは一般的な感情を維持出来ている人からみた視点なだけだとしたら…

一般的な視点とは大きくかけ離れてしまっている人にとってはとてもポジティブな内容なのかもしれないのです。

このネガティブという言葉に対しても僕の考え方は以前と比べ別次元のものになりました。

下書きはしているのですが投稿したら批判されるのかなぁとかあれこれと考えて躊躇している僕がいるのですが…

僕の書いている内容も考え方も人によっては正しくないんだと思います。

結論に迫ろうとすると答えなどどれだけ探しても永遠になく何もかも1人の人のその時の気持ち次第なんだなと思うことしか出来ません。

人の気持ち次第なんだなと思う事しか出来ないのですがネガティブに思っていなくてとてもポジティブに思っています。

どうしてポジティブに思うのかなのですが常識という強いワードに対しても100%の答えなどないんだなと思えるようになったからです。

ただただ常識だからとその常識の中身を真剣に考えずにその常識にとらわれてはいませんか?

常識とは社会を生きていく中で非常に重要です。

重要だからといって自分勝手に…自分勝手というよりも社会生活の流れで身についてしまっている常識というものは自分の中での常識が中心なだけであり他人の常識が自分の常識と完全一致しているわけがないんです。

自分が考えている常識が常識になっているだけで常識の中心が全く違う人にとってあなたは非常識な人なのかもしれません。

世間的には変わり者と言われる人達ですね!

自由に生きている人が目立つと思いますが自分もそうしたいと思った事はありませんか?

だけど常識が邪魔して自由になど出来ませんよね。

この常識を自分自身である程度コントロール出来れば時に常識にとらわれない人生を送れたりするかもしれません。

臨機応変に常識を大前提にしないような人が増えたならその人達も楽しく過ごせる時間が増えるだろうし弱っている人々にも今までの動きでは考えられない常識だった事以外の恩恵が出てくるんじゃないのかなぁと思っています。

結局最後は弱っている人を擁護しているような締めくくりなのかと思われるかもしれません。

その通りです。苦しんでいる方々は今のままの常識では救いになるような事は圧倒的に少ないです。

最低限の支援や援助はありますが断言出来ますがそれだけでは生活苦は何一つ改善されません。

とてつもないハンデを背負っているので元気なみなさんで支えられる世の中になりますようにと心から願っています。

もう少し言えば国が身体障害者や精神障害者、難病患者さんなどに対する支援を国民に要請して欲しいです。

健常者さんの中にも生活苦の人はたくさんいるし払いたくない人ももちろん現状ではたくさんいるでしょう。

払わないのは悪だという意見が出てきそうな問題などもあるとは思いますが払いたくないと思わせてしまう教育に問題があるのかもしれないなど見直していく点は増えるのではないでしょうか?

払わなかった人の大切な家族さんが同じ思いをすればきっと払わなかった事を後悔するのではないでしょうか?

後悔するしないは問題ではありませんね。

払わないのも自由だと思っています。
強制するものではないのも事実だと思います。

払ってあげたいけれどそういう場が用意されていないのは問題なのではないでしょうか?

どのくらいそういう方々がいるのかはわかりませんが一定数いらっしゃるのも事実です。

国が始めたけれど100円ずつしか配布されない結果になった…

100円だったとしてもいろいろな思いがこもっているのでその思いに勝るものはありません。

いろいろ申し込めばNPO法人などが援助もしてくれる場合もあるかもしれません。

しかし体や心が弱っているのにどこに申し込めば良いのかもわからず何もしなければ何もない環境っておかしいと思いませんか?疾患によっては寝たきりの人やそんな事を検索する余裕などないほど苦しんでいる日々を過ごしている人もいるのです。

何もしなくても認定されているような証明があれば何もしなくても金銭的援助が受けられるような環境が良いと思います。

考えれば考えるほどに簡単では無さそうですね…

患者さん以外の悪用とか諸々もですよね…

いろいろ思う案はあるけれど個人で考えた内容なんか現実とはかけ離れた内容になりがちになるのですが少しでもはやく楽しく過ごせる時間を与えてあげられる世の中になってほしいと強く望んでいます!

自分の妻がこうならなかったら考えてない側の1人です。

結局自分周辺に起こらなければ気がつけない事ばかりなんでしょうね。

この思い届いてほしいなぁ。

妻が少しでも元気な間に何処かに楽しく出掛けたいけどそんな余裕も妻のお世話、子育て、家事などでありません。

本心は残された時間の限り笑顔でいてもらい続ける事しかしたくありません。

わがままなのかなぁ…

似た境遇の人はどれくらいいるのかな…

不運な事が起こったので楽しい時間をたくさん過ごしたいけれど家事に追われて身体的な苦痛からは逃れられないけれど心から楽しい外出をしたいと思っています。

この外出をするためには大切な時間を削って削って間に合わないかもしれないプレッシャーにもたえて…

ちょっとハードルが高すぎるよというような事を愚痴っちゃいましたね!

何とか自分の精神力を維持しながら毎日を過ごしていきたいですが折れてしまったらすみません。

繰り返しになりますが納得しようがない2つの内の1つは納得する事が出来たのでそうそう折れることはないと思っています。

この内容で考え方に変化を持っていただいたり心が少しでも救われたと思えていただけたのであれば書いている意味はあると思えますので嬉しいです。


インフルエンサーとかになれたとしたらたくさんの人の目につくんですよね…

自分がそこを目指すのも大切なんだろうけどそういう人達が積極的に苦しんでいる人達の手助けになる行動が盛んになってほしいなぁと思います。


苦しんでいる方々へ少しでも平和な時間を…このように思う方や未来が少しでも良くなれば…など人それぞれどの分野に思いが溢れるのかは人生の流れによって決まるんでしょうね。


その他の分野の現状を知る余裕も何も無いので1番願っている事を最優先に発言させていただいています。

人によっては僕の思っている事が1番優先だとは思えないものだと思います。

世界的な優先事項としては正しくないのかもしれません。

しかし僕はこの問題について一生涯最優先だという考えが変わることはありません。

少し先の未来や数万年後よりも人として生まれた人が同じく人として生まれはしたが望んでもいない苦痛を与えられている人を積極的に助ける事の方がとても重要だと思うからです。

自分で解決しろという考え方や他人事だからと知らんふりをしてしまう人々
の考え方が少しだけであっても変化するきっかけとなれば嬉しいですしそれが電車の席を譲るのが恥ずかしいからと譲らないでいたのが初めて譲ったなどの行動に繋がる事を願っています。

拒否されたりもしてとても恥ずかしくなる場合もあります!

声をかけて拒否されるのがどうしても厳しいのであれば何も声をかけずに席を離れるというのも良いと思います。

そこでとても健康な人がどかんと座ればこの次は声かけようと思うのかもしれないですし見た目ではわからないけど膠原病だったなんて事はあると思います。

膠原病の妻がいる今だから膠原病なのかもしれないなとか膠原病だこの人はと思える事が凄くあります。

電車などで注意深く見ていると膠原病の人って実はとてもいるんだという事がわかります。

そういう環境になったので気がつくのであってそうでなければ難病患者そんだとは思いもしないんです。

難病患者さん達は座る場所がなくても何も言いません。

明らかに苦しそうにしているのであれば必ず誰かが席を譲っていますのでそれはとても良い事です。

見た目で判断しづらい難病患者さんはなぜ何も言わないんでしょう?

難病なので席を譲って下さいなどと言える環境ではないからです。

ヘルプマークをつけていてもそれに気付いても席を譲る方はとても少ないです。

難病患者さんはそのヘルプマークも気遣ってつけていない方が多いと思います。

それが今の現実であり体がとてもつらいのに肩身も狭い環境なので堂々と出来ないという事です。

病気を隠したいと考えている方などもたくさんいるのも事実です。

そんな社会が少しでも変わってほしいです。

個人の意見を垂れ流していますがこのように当人からするとどうしても今の現状が納得出来ないと思う事は人それぞれありますよね。

僕にとってはとてもとても大きな事でそうかもしれないけれど現実的に無理だよと論されたところで納得など出来るはずがありません。

その人にとってとても重要な事なのだとしとら思いついた言葉をタイミングも考えずに伝えられても納得しようが無いので伝わりませんし響きません。

それだけ大きい出来事に対しては論されても簡単には納得しないという事を覚えてもらって接して下さい。

僕も欠点だらけでいつも思うような接し方を続けられている訳ではありません。

繰り返し反省し接するように心がければクセになって体が覚えてくれるようになります。

僕は寝たきりになりがちな妻の心だけでも救いたくて試行錯誤しています。

救える部分というのはストレスを極力減らし心の負担をかけない事だと思っているのと同時に僕にはそれしかもう出来ないんです。

自分の妻の心も救えていない人間がと思われるかもしれませんが以前の自分のままでは間違いなく救えないと思っている途中経過だと思って下さい。

僕はあれこれと性格的に考えてしまいます。考えをやめるなど性格的に不可能なんだと思い知りました。
不可能と思う事は間違っているのかもしれないけど何をしても考えるのであれば妻に幸せだと思い続けてもらうために毎日考えている事は良い事です。

良い事なんだけどとてもつらい。

今日もこれから笑って過ごしてもらうためにはと考えて過ごします!

どんなギャグを言おうかな?
どんなボケをかまそうか?
散歩に誘ってうんちでも踏んでみようか?

こんな事を冗談半分で書いてみたけど何を言ってもダメな時はあります。
うんちは踏んでませんが…

少し元気に話せるタイミングを見計らってうんち踏んでみようかな…

大人だから近づかないでとなる予想しかないけど試してもないのに決めつけるのは良くない…

靴の買い替え時にでも実行してみる事にします!

笑ってくれないと泣く案件ですねこれ…

長文にお付き合いいただいた方がいましたら最後までお付き合い下さりありがとうございました。 

内容をどう捉えられるかは自由なのですが僕自身はつらいけど前向いています。

前向きでなくなる日は訪れるんだろうなと思っているのでその時は最後に前向きでないと正直に書きたいと思います。

もっと恥ずかしさなどを投げ捨てまくって行かないと!挑んでいます(汗)




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