こんまりのときめきとベンヤミンの天使
在宅勤務とこんまりの足音
2021年も半分が過ぎたというのに、オフィスには今年で数えて3回ほどしか行っていない。ずっと在宅勤務だ。前までは日本のラジオを聞きながら仕事をしていたが、最近はNetflixでドラマシリーズを音だけ流しながらランダム再生している。音だけで面白い・気になった作品はその場で停止し、ちゃんと後ほどじっくり観ることにしている。結構な確率でこれが面白い。
ふと気が付くと、やけに頭に入ってくる作品の音が気になった。題名を見てみると"Tyding Up with Marie Kondo"と書かれている。「マリー」と呼ばれる主人公(なのか?)は日本人で、彼女がアメリカ人の家庭に入り込み、掃除のノウハウを彼/女らに伝授するというドラマだった。マリーの日本語が一部混じっていたためにその音がやけに私の頭に入りやすく、気になったのだ。一応、気になった作品だから見るかと思い、ちゃんと見始めることにした。そのマリーが「こんまり」こと近藤麻理恵ということに気づく。昔、日本にいた頃に彼女をテレビで見た記憶がよみがえってきた。一話あたり35分~47分の7話ということもあり、あっさりと見終わることができた。そして、私は思った。この作品に対しては闘わなくてはならない、と。
方向性の転換
ここまで文章(タイトルも含めて)はオリジナルのままで残しているが、以下の文章はかなり草稿からかなりの内容変更を余儀なくされた。というのも、ほぼ同じ内容の文章(じんぶん堂、藤本浩介「人生がときめくベンヤミンの歴史」、最終閲覧日:2024年2月11日。)をネットで見つけてしまったからだ。
ぁ~あ、やられたー、書き直しかー、アイディアの発芽が遅すぎたなぁ、それにしても良い文章だな、というか同じような発想を持つ人が「紀伊國屋じんぶん大賞」の選考委員ってなんだかうれしい、みたいな感情の動きであった。
本作品を鑑賞していて覚えた違和感は、その躊躇のなさ/残虐性とその捨てられてたものに対する忘却へのスピード感だった。このこんまりマジック的な「忘れられたもの」を処分することへの対抗としての歴史の救済を書かなくては、そうだ、それを歴史哲学の使命としていた身近な哲学者がいた、ベンヤミンだ。これでイケる、これで書ける。と思ったものの、この藤本氏の文章はその1歩先へ行っており、こんまりの「ときめき」という概念を敢えて地すべり的にずらし、ベンヤミンの歴史哲学の方にベットするという文章になっていた。いやはや、参った。
ときめく(Spark Joy)の概念化と片付けのメソッド化
さて、作品について入っていこう。全7話を通してこんまりがやっていることは、ときめく(Spark Joy)の概念化とそれを用いた片付けのメソッド化である。
あなたの魂はこのモノによって喜びの火が付くか、それともそれを引き起こさないか、That is the question from Konmari.もしそのモノがあなたの魂をときめかせなければ、それを捨てよ、片付けよう、と。
そして、何を残し、何を捨てるかが決意できたの者のみ対して、その片付け方(服のたたみ方や本/雑誌の収納術)を伝授する。結果として、全エピソード、すべての7家庭においてHouse(家)が片付き、片付くことで各人がポジティブな気持ちになる。そう、こんまりの断捨離メソッドはThe Power of Positive Thinkingとして機能する。まさにアメリカ的、アメリカ人にウケそうな内容であることに間違いない。すべてがハッピーエンドだ。
アメリカで本作品がウケたのには、もう一つのフックが関わっていると思った。それは、こんまりの一挙手一投足が「私たち(アメリカ人)が大好きな日本文化」との強烈な結び付けられている。例えば、マリーは片づけを始める前にかならずHouse(家)にも挨拶する、というかHouse(家)に対して祈るようなしぐさを時間をかけてその家庭のメンバーに見せつける。また、Spark Joyのないモノを捨てるときに、必ずそのモノに対して感謝するように促す。さらに、捨てることに躊躇を覚えた場合は、深呼吸によって魂を落ち着けるように勧める。アメリカにおける、いびつな鈴木大拙の受容とこんまりメソッドがここで木霊(こだま)する。
片付けのメソッドについて、よくMagic(魔法)という語彙が使われるのはなぜかと思ったことがあったが、本作を観てようやく理解できた。大多数の人々が疑問・不満に思っていることを、簡単な方法によって解決してみましょうという前近代的な呪力的なイメージに片付けのメソッドは近いからだ。それは宗教と形容してもよい、もちろん良い意味でだよ。
本作に出てくる誰もが、片付けは大変だけど幸せになれると信じているし、そして実際にこの映像上だと幸せになっているように見える。しかも、片付けという行為を家庭内のメンバーで行うことでさらに親密な関係になれたというエピソードも本作では披露される。
ときめかないものと、それらを忘れるということ
宗教とは内と外の線引きである。この場合、自分の魂がゆさぶられるモノのみ生かし、それ以外は処分する。特に印象深かった点は2つ。まず1点目は、彼女が執拗に捨てたことを褒めるところである。ホントに頑張ったんですねー、と。時にはその頑張りぶりに涙を流すシーンさえある。その彼女の言葉に、出演者たちは救われる、私のしていることは間違っていない、と。免罪符をもらうことで彼/女らは罪の意識から解き放たれる。
そして2点目は、捨てる作業を行う順番である。まずは洋服、本や書類、小物、そして趣味や思い出の品の順番でときめく/ときめかないのかを判断していく。これには簡単に判断できるモノから先に始めることで、捨てることを慣れさせていく合理的な理由がある。そして、捨てることに躊躇がでないように取捨選択の判断能力(ここでいう「ときめきの感度」)を高めていくことで、判断が難しいモノについてもときめく/ときめかないが容易に判断できるようになってくる。ときめく/ときめかないの評価基準をすべて簡単に取捨選択できるモノのそれに合わせることで、全体的にその基準を変化させていく。判断能力を麻痺させていき、結果として躊躇を少なくさせていく。そして、彼女は最後に「本当に大切なものとは何か」について説教を行う。(「本当に」とか「本当の」、「真の」とか「真に」といった言葉を使う大人を信用するな、と言ってくれた石原千秋には今でも感謝している。)
あえてモノをモノとして扱わずにまるで「生きているモノ」として接することから始める。そして、その「生きているモノ」にときめきを感じなかったから、それらに感謝をした上で別れを告げる。そして、「生きているモノ」として扱っているからこそ、時に泣く。別れが悲しい、と。しかし翌日の朝にはそんなことは忘れ、ポジティブになっている。なんて気持ちがいい朝なんだ、と。(ここには、人間を人間以下に見ることで始まる「戦争」にも近いものを感じる。)
「忘れられたもの」とその弔いについて
しかし、弔いは過去の消去ではない。幽霊を忘れることではない。弔いとは、それを背負い、引き継ぎ、幽霊とともに生きていくことだ。ピクサー映画『リメンバー・ミー』がもう一度教えてくれた通り、死とは2回訪れる。一度目はモノとして、二度目は忘却として。「忘れられたもの」の忘却としての死を迎えさせないためにも、そのモノを想起させてくれる何かを残し続けなくてはならない。そしてそれとともに生き続けなくてはならない。それがベンヤミンのいう、過去の救済である。
とりあえず、KonMari Shopにて販売されている土鍋とガーデニング用のスコップやこんまりの本を買い、数年後にそれらがときめかなくなったとしても、ふとした偶然からNetflixで本作を観ることなってしまった過去を一瞬でも想起させてくれるそのモノたちとして、それらを私は捨てない、絶対に捨てない。
さて、書いているうちにどうしてもまた観たくなってきたから、今宵はトイ・ストーリー3でも観るか。