ルドルフ・シュタイナーのGA194:Die Sendung Michaelsは「ミカエルの使命」なのか?-講義の読み方の提示①-
本ノートは、ルドルフ・シュタイナーの最重要講義録の一つであるGA194:Die Sendung Michaels—Die Offenbarung der eigentlichen Geheimnisse des Menschenwesens(1919)のタイトルの意味について、原書を読んでいる者として、読み方の一つを提示するものです。
2021年11月20日、本書の高橋訳『ミカエルの使命』が刊行されました。原文を読んできた私としましては、高橋先生が超訳を自明の謳い文句としてきていることはわかっていますが、訳文だけを読んでいても全体的によくわからないし、単なる誤訳と判別がつきにくくなっていることが多いというのが素直な感想でした。読むのに難儀する文は多くありますが、私としましては素直に原文通りに読んだほうがすっきりすることが多かったのです。全体と部分は切っても切り離せないとでも言いますか、原文全体をシステムと譬えるなら、そのシステムの構成要素が一つでも異なってしまうものとなってしまったがために、元々あったシステム全体が異なってしまったか、システムエラーを起こしてしまったのではないかと思われるほどではないかと感じたのです。
そもそも本講義のタイトルは『ミカエルの使命』と訳されていますが、このタイトルの訳は妥当でしょうか。高橋訳の本講義を読んだ方たちは、果たして「ミカエルの使命」が何なのか、読み取れましたでしょうか?私としましては、そもそもそこからして疑問なのです。少なくとも高橋訳を読んで「「ミカエルの使命」がどこにも書かれていない」と思った方が何名かおられるのを私は存じあげています。私は、この問題は結構深刻な問題ではないだろうか、と思っているのです。何が原因なのか、これを私なりに検証してみたいと思います。
日本語で「ミカエルの使命」という言葉を見て、皆さんはまず何をどう思い浮かべるでしょうか。少なくとも初見で私がこの言葉を見ると、「ミカエルが主体で、彼が使者として任された何らかの命令・務めを責任をもって果たすこと」が語られるかのようにとれるのではないかと思いますがいかがでしょうか。しかし、実は本講義でミカエルは主体的に行動するものとしては全く扱われていないのです。これは、実は最初の冒頭の一文から読み取れることなのですが、高橋訳は冒頭の一文から超訳となっていて、しかもまるでミカエルが主体のように読めてしまうように訳されています。まずそこを読み比べてみたいと思います。
Ich möchte in diesen Tagen etwas sprechen über die Art und Weise, wie wir Menschen der Gegenwart in der Lage sind, uns zu stellen zu derjenigen geistigen Macht, von der wir sagen können, daß sie als die Macht des Michael eingreift in das geistige und damit auch in das übrige Geschehen der Erde.(ドイツ語原文:強調は筆者による)
これから六日間にわたってお話しするのは、私たち現代の人間がミカエルという霊的存在の力とどう関わることができるのか、その関わりの仕方についてです。ミカエルの力は地上のいっさいの出来事に、それゆえにまた、地上の霊的な出来事にも関与しています。(高橋訳)
これから始まる数日間の講義では、こんにちの私たち人間が、あの霊的な力とどう関わることができるかについて、いくらか話してみたいと思います。それはミカエルの力として地球の利発な部分に働きかけることで、それ以外の現象にも働きかけると言い表すことができる霊的な力なのです。(私訳)
原文から見て取れるニュアンスをとると、実は働きかけの主体はミカエルにはないのです。むしろ主体は、derjenigen geistigen Machtであり、それと同義のDaß節の最初のsieなのです。これがミカエルの力として働きかけると言っており、主体はむしろミカエルの背後にいることが分かります。derjenigen geistigen Macht (sie)⇒die Macht des Michael⇒in das geistige ⇒damit auch in das übrige Geschehen der Erdeというふうに働きかける力になっているのです。
(後半の力の働きかけの対象となる二つのもののことは、ひとまず度外視してください。「地球の利発な部分に働きかけることで、それ以外の現象にも働きかける」という一件奇異に見える訳になっていることも、きちんとした根拠があります。それについては、別ノートをつくりたいと思います。さしあたりここでまず問題にしたいのはタイトルと関わると思われる前二者です)
もちろん高橋訳との違いは、ドイツ語の文の解釈としてalsをどう捉えるかの違いだということはあるでしょう。しかしここをどう捉えるかは、この文が講義全体の前提であるからには、解釈の違いが生じるにしても、かなり重要なポイントとなることは必至です。私見では、これは第一講で、全講義の大前提として、全ての霊的ヒエラルキア存在が述べられるのではなく、あからさまに形態霊までで説明が止まっていることが深くかかわっていると見ています。しかも第二講では、この形態霊は、その名前としては全く出てこないのですが、「ヤーヴェ」や「キリスト」など、その他の言葉でそれに相当する霊的存在が語られています。このことを知らない人が本講義をいきなり読んだら、形態霊のことが触れられている意味が読み取れないような語り方になっています(そういう方はこの講義をいきなり手に取るようなことはないかもしれませんが…)。しかし、たとえ知らなかったとしても、第二講を見ると、ミカエルは主体となって関与しようとしている存在としては全く語られていないことはわかると思います。むしろヤーヴェやキリスト、つまり形態霊が主体であって、ミカエルはその顔であり従僕であるということが語られているのが目につくでしょう。これは高橋訳でも変わっていません。ですから、私は、sie(derjenigen geistigen Macht)とdie Macht des Michaelを挟んでいるalsは、高橋訳のように両者が同一であるととるようには取れないと考えます。むしろsie(derjenigen geistigen Macht)を形態霊のことを示唆しているととると、わざわざ第一講の前半でなぜ形態霊までのヒエラルキアのみ限定して述べているかの理由がわかるのではないかと思うのです。
もう一つ引用しておきたい文章があります。それは第一講の最後の段落にある文章です。
Alles das hängt zusammen mit der Sendung des Michael gegenüber denjenigen Wesen der höheren Hierarchien, mit denen er wiederum in Verbindung steht.
こういう全ては、ミカエルが再び結びついている高次のヒエラルキアの存在たちに対するミカエルの使命に関係しています。(高橋訳)
この箇所の訳の対案は文章の構成上後述する形をとらせていただきたく思います。この箇所はDie Sendung Michaels講義全体の中で唯一同じSendungというドイツ語が出て来る文章です。この文章を高橋訳で読むと、やはりミカエルが主体であるかのように読めてしまいます。原因は「ミカエルの使命」という訳にくわえて、gegenüberを「高次のヒエラルキアの存在たちに対する」と訳してしまっている言葉の連なりが原因ではないかと思われます。しかし、その後この言葉は全く出てこないし、先にも述べたようにミカエルが主体であるかのように語られるそぶりはないのです。また、wierderumをそのまま「再び結びついている」というのが、どうしても浮いてしまうように見えてしまっています。
以上が、タイトル名からしてミカエルが主体的に見えるような言葉の連なりに見えてしまう「ミカエルの使命」という訳にはできないし、高橋訳の冒頭の一文のようには訳せないと思ってしまう私なりの理由の一部であります。では、それに代わる相応しいタイトル名を私が訳すなら、対案はあるのかということになるかと思います。もちろん、あります。そもそも原語のSendungには、確かに使命や任務、課題という意味はあるのですが、むしろ辞書を調べれば第一義は「派遣」となっていることがわかります。さしあたり意味を第一義通りに素直に「ミカエルの派遣」ととれば、主体がミカエルのように見えてしまう訳にはならず、「ヤーヴェないしキリストによって派遣される者としてのミカエル」と素直にとれて、以上に見た問題は全て解決できるのではないかと思います。
しかし、訳者は自分でこう言っておきながら、タイトルを単にこのように訳すだけでは不満です。というわけでここからは日本語の問題であり、かつ私が納得するまでどういう思考プロセスを経たかを説明します。
ミカエルがヤーヴェないしキリストの顔であり従僕として派遣される者ということからとれるミカエルに相応しい「派遣」に代わる言葉としては、まず「御使(おつかい/みつかい)」が挙がるのではないでしょうか。しかしこの言葉をそのまま「ミカエルの御使」とやってしまうと、今度はまたミカエルが主体となって何か別のものがミカエルによって遣わされるように読めてしまうでしょう。そこで日本語の順番を入れ替えて「御使ミカエル」とまで考えた時、そもそもこの「御使」というのは「天使」のことですし、そうすすると「天使」という日本語の中にはSendungの第一義の意味が含まれていることになります。しかしミカエルは「天使」ではなく「大天使」です。そこで、「大天使」と書くとドイツ語の直接の対応は当然Archangelが思い浮かぶのは承知で書きますが、こう言った意味や前述の説明を根拠として日本語上では、
『大天使ミカエル』
としても全然問題はないのではないかと思うのです。ついでに副題のほうもこれと併せて「人間存在に関する本来の秘密を啓示する者」とすることを考えました。根拠は第二講でミカエルについてそっくりそのまま直接言われているというのもあります。ですが、このことの詳細については、残している第一文の最初の文章のことと同様に、また別のノートが必要になると思っています。
さて最後に、放置しておいた第一講の最後の段落の私訳はこうなります。
以上の全ては、あの高次のヒエラルキア存在たちと向き合っている大天使ミカエルと関連しています。ミカエルはミカエルであの高次のヒエラルキア存在たちと結びついているのです。(私訳)
gegenüberを「向き合っている」と訳し、wiederumをミカエルはミカエルで(それはそれで)と訳したのは、高次のヒエラルキアの存在たちの全てが互いに入り乱れてひしめき合っている(durcheinandergeschoben ist)と言われていること、更にこのことを受けて形態霊(ヤーヴェやキリスト)が主体でありその顔・従僕であるミカエルも同じように「それはそれで」結びついている、というニュアンスを出せるからです。そしてder Sendung des Michaelを大天使ミカエルと訳しました。
体裁上どうしても批判的吟味という形とならざるを得ませんでしたが、当方は高橋先生に対して党派意識を持つとかそういうことには一切関心がありません。訳については自分なりにそれなりに根拠をもって説明できることが必要だと常々意識して行っている自分としては、そこからでてきた思考プロセスの過程を書いたにすぎません。以上が今回取り上げたタイトル名の問題と、第一講の第一文に書かれていることの半分についての私なりの説明となります。引き続き残りの問題に関するノートを書きたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。
以下には何もありません。当方は『大天使ミカエル』の翻訳を行っています。本記事をお気に召した方で、投げ銭に値するという方は、翻訳活動のご支援をお願いいたします。
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