ルドルフ・シュタイナー『大天使ミカエル-人間存在の本来の秘密を啓示する者-』第一講
訳者より:最初の謎めいている一文については、講義の読み方の提示①・②で解説を書いてありますので、併せてお読みいただけますと幸いです(追記(2024/1/7):訳者註を増補しました)。
1919年11月21日 ドルナッハ
■Ⅰ-1 これから始まる数日間の講義では、こんにちの私たち人間が、あの霊的な力とどう関わることができるかについて、いくらか話してみたいと思います。それはミカエルの力として地球の利発な部分に働きかけることで、それ以外の現象にも働きかけると言い表すことができる霊的な力です(☆1)。今日のところはまず、その際に問題になることを準備する必要があるでしょう。というのも、私たちがいつも自分の身の周りで目にする徴候から、今特徴付けた霊的な力の様々な働きかけを、人間の知性で実際に素描することができる、様々な観点が必要だからです(☆2)。霊界について真剣に語ろうとするならば、「この物質界の中に霊的諸力が示すものをいつでも覗くことができる」と心にとめておくことが必要です。私たちはいわば、物質界のヴェールを突き抜けて、霊界の中で力を発揮できるものを求めようとします。物質界の中にあるものはもちろん、誰でも観察することが可能です。そして、霊界からやってくる力は、物質界が与える謎を解く役割を果たします。私たちはただ物質界での人生の謎を正しい仕方でのみ感じ取らねばなりません。まさにこうした重要な事柄において、ちょうどこの講義の前の時間(☆3)に私がここで語った多くのことを真剣に受け取ることが重要です。私たちはとにかく、最も個人的な世界観と、人類全体のみならず世界そのものに深くかかわることの真の理解とを一気に結びつけることができません。私たちは個人的な利害関係を捨てなければなりません。狭い意味での個人的なものを捨てた時に、個人がこの世界で何をなさなければならないのか、そして自分の価値として何を自ら把握しなければならないのかを、私たちは最もよく理解することができるでしょう。
■Ⅰ-2 さて、皆さんご存じのように、地球紀の進化発展として受け取らなければならない私たちの進化発展には、別の進化発展が先行しており、私たちは要するに宇宙の進化発展全体の中に存在しています。私の著作に慣れ親しんでいるか、講義のいくつかを受講された皆さんは、次に挙げることをご存じです。第一に、この進化発展が引き続き進行し、引き続きより進んだ段階へと越え出ていくことになるような或る時点に到達したということです。第二に、私たちがこの世界そのものを観察するとき、私たちは差し当たり地球上の各界、つまり鉱物界、植物界、動物界、人間界で出会う存在たちとだけでなく、これら各界の高位にあり、私たちが高次のヒエラルキア存在としてまとめた存在たちとも関係を持たなければならないということです。私たちが進化発展全体を語る時、私たちはいつでも、この高次のヒエラルキア存在のことにも気を配らなければなりません。
■Ⅰ-3 高次のヒエラルキア存在である彼らも彼らで進化発展し続けます。私たち人間の進化発展と、それ以外に地球の様々な各界の中に存在する進化発展との類似性を私たちが見出すならば、私たちは彼ら高次のヒエラルキア存在が進化発展することを理解することができます。どうぞ、ただ次のことを考えてみてください。皆さんご存じのように、私たち人間は土星、太陽、月の各進化発展を経て地球紀に到りましたから、私たちが宇宙の進化発展を注視するならば、「私たちは今や地球環境の中で感じている人間として、私たちの進化発展の第四段階に到達している」と言い表すことができます。
■Ⅰ-4 では、私たちの人間段階のすぐ上の段階に位置している存在、即ち私たちが天使と呼ぶ存在のことを考察してみましょう。単純な比較をするのであれば、次のように言うことができます。「天使たちは、人間の形姿とは全く異なる形姿をしており、そもそも人間の物質的な感覚では見ることができない。彼らは木星の進化発展段階にある」と。
■Ⅰ-5 次いで大天使に目を向けますと、彼らは人類が金星紀で到達するであろう進化発展段階にあります。そしてアルヒャイ(権天使)、つまり時代霊、私たちの地球の進化発展の中へと全く特別に突き出ているあの存在たちに目を向けますと、彼らは人間がヴルカン星紀で到達するであろう進化発展段階にあります。
■Ⅰ-6 さて、ここで重要な問題が生じます。その次のより高次に位置する階級の存在たち、いわゆる形態霊(能天使・エクスシーアイ)のヒエラルキアに属する存在たちも存在するということです(☆4)。「彼ら形態霊たちはどのような段階に存在するのか」と問われるならば、「形態霊たちは私たち人間が私たちの未来の進化発展、つまりヴルカン星紀の進化発展と差し当たり認めているあの段階を既に超え出てしまっている」と言わざるを得ません。つまり彼ら形態霊たちは、私たちが考察するのに差し当たり十分な段階を七段階とすると、第八段階に到達してしまっていると言わざるを得ないのです。私たち人間は進化発展の第四段階に存在していますが、その第八段階を考察対象として取り上げてみると、そこには形態霊が存在している、と言えるわけです(☆5)。
■Ⅰ-7 しかし、今や私たちは、この進化発展の段階的推移をたとえば横並びに思い浮かべるのではなく、むしろ、その全てが互いに入り乱れてひしめき合っているということを思い浮かべなければなりません。たとえば地球を包み地球に浸透している大気圏のように、形態霊が属するこの第八の進化発展の天体領域も、私たちが差し当たり人間として存在する第四の進化発展の天体領域に浸透しています(☆6)。差し当たり進化発展のこの二つの段階を厳密に注視してみましょう。
■Ⅰ-8 繰り返しになりますが、私たち人間そのものは、進化発展の第四段階に到達した天体領域に存在しています。しかし、今や私たちはまた、差し当たりその他のことを全て度外視するならば、形態霊が私たちを包み、そして私たちに浸透して、自分たちのものと見做さねばならない天体領域の中にも、存在しているのです。さて、ここで進化発展の途上にある人間を具体的に取り上げてみましょう。私たちはしばしば、この人間の進化発展を、有機体において二つに、即ち人間の頭部の進化発展を、頭部以外の有機体の進化発展から区別してきました。私たちはまたその頭部以外の有機体の進化発展を、胸部の進化発展と四肢の進化発展の二つの組織に分節しますが、この点については差し当たり度外視しましょう。ただ、人間の中には、頭部の進化発展に属するものの全てと、人間の頭部以外の有機体に割り当てられたものの全てとがあるという考え方をしてみたいのです。
■Ⅰ-9 さて、要点を次のようにイメージして考えてみましょう(図1参照)。たとえばこの図のように、海面を考え、人間が海の中をかき分け、自分の頭だけ出すようにして前に向かって移動していくとイメージするのです。そうすれば、このイメージを通して——もちろんイメージに過ぎませんが——現在の人間の状態が得られるでしょう。頭部がその中に根ざしているものは全て、進化発展の第四段階に数え入れられなければならないでしょう。そして、人間がその中をかき分け、しかも歩いて行く、或いは泳いで前進して行くと言うことができるこの海のイメージにあたるものは、進化発展の第八段階と呼ばなければならないでしょう。というのも、人間は或る意味で、その頭部に関して、形態霊が彼ら固有の存在を展開するその要素から生え出ているという固有の事実があるからです。人間はいわば、頭部の形成に関しては、形態霊の存在によって浸されている頭部以外の有機体から解放されているのです。
■Ⅰ-10 このことを丹念に理解してこそ、人間を正しく把握することができます。というのも、人間がこの世界で持っている特別な位置を、正しい仕方で把握することができるからです。つまり、形態霊の側からある種の創造的な影響を感じることがあるという点で、人間はその創造的な影響を、頭部の素質を通じて直接感じているのではなく、頭部以外の有機体が頭部に及ぼす作用を通じて感じているということによってこそ、人間がこの世界で持っている特別な位置を正しく把握することができるでしょう。ご存じのように、私たちは呼吸をしており、そしてその呼吸は、外見上の生理的な話をするならば、血液循環と関連しています。そして血液は、心臓によって頭部へも流し込まれています。このことによって頭部は、頭部以外の有機体と有機的で生き生きとした関連があります。頭部は、頭部以外の有機体から栄養を与えられ、活性化されます。
■Ⅰ-11 二つの事柄を厳密に区別する必要があります。一つは、頭部が外界と直接的に関連しているということです。皆さんが或る物を見るとき、皆さんはこの物を自分の眼によって知覚しています。このように、外界と頭部の間には直接的な関連があります。しかし、呼吸プロセスと血液循環プロセスによって維持されている頭部の営みを観察しますと、頭部以外の有機体から血液が頭部へ流し込まれてきています。ですから、頭部と周囲環境との間には直接的な関連ではない、或る間接的な関連もあると言うことができます。
■Ⅰ-12 当然のことながら、「口から息を吸い込むのだから、呼吸も頭部に属するのだ」などと言って、細かいことに拘った区別をする必要はありません。そういうわけで、これはただのイメージだと申し上げたのです。組織的には、口によって吸い込まれたものは、本来頭部にではなく、頭部以外の有機体に属しているのです。
■Ⅰ-13 差し当たり今しがた取り上げたこの基礎概念に注目して、私たちが二重の天体領域の中に存在しているという理念を心にとめておいてください。一つは、私たちが土星、太陽、月の進化発展を経て、地球の進化発展の内部に、つまり、私たちがその進化発展の第四段階に存在していることによって運ばれてきたところの天体領域です。更に、私たちはもう一つの生活圏内にも存在しています。私たち人類に地球が属しているのと同じように、形態霊たちにこのもう一つの天体領域は属しています。ただしこの天体領域は、私たちの地球に浸透していますが、私たちの頭部のみ除外しています。このことを考慮に入れれば、私たちは、自分の頭部以外の有機体全体、感覚的知覚ではないもの(超感覚的事実)もろともに、その進化発展の第八段階の天体領域の中にも存在しているのです。以上のことを注視すれば、皆さんはこれから述べることに対して一定の基礎を作り出したことになります(☆7)。
■Ⅰ-14 しかし、なおも他の概念によって一定の基礎を作っておきたいと思います。以上のような影響下にある私たちの生活を考察したいのであれば、私たちが既にしばしば言及してきた世界事象に関与するあの存在たち、即ちルツィフェル的な存在たちとアーリマン的な存在たちを注視するやり方以外では考察できません。差し当たり一度だけ、これらの存在たち、即ちルツィフェル的な存在たちとアーリマン的な存在たちの最も外的な側面に注視してみましょう。これらの存在たちは、私たち人間と全く同様に、私たちがまさにその内部に存在している天体領域を棲家としています。これらの存在たちの最も外的な側面に注視しますと、次のようにいうことができます。「私たちが幻想的になろうと欲し、一方的に空想や熱狂に耽溺し、——イメージ的に表現すれば——私たちが自分の存在もろとも自分の頭部を超えて更に先まで行こうと欲するならば、私たちは全ルツィフェル的存在たちを、私たちが人間として感じるその諸力の持ち主としてイメージすることができる」と。私たちが人間として自分の存在もろとも自分の頭部を超えて更に先まで行こうとするならば、それは私たち人間の有機体において一定の役割を果たしている諸力ではあるのですが、しかし私たちがルツィフェル的な存在と呼ぶあの存在の宇宙的(普遍的)な諸力でもあります。自分の頭部を超えて更にその先まで行こうとするものから全面的に形成された存在を心に思い浮かべてみるならば、私たちの人間界と一定の関連があるルツィフェル的な存在を心に抱いていることになります。その反対に、私たちをこの地球(地上)に圧しつけるもの全て、即ち、私たちを冷めた俗物にし、唯物論的な心情を育むようにさせるもの、乾涸びた知性等々と呼びうるものを押し通すもの、その全てを心に思い浮かべてみるならば、アーリマン的な諸力を心に抱いていることになります。
■Ⅰ-15 今しがた魂的な仕方で述べたことの全ては、体的な仕方でも表現することができます。人間は本来常に、血液が欲するものと、骨が欲するものとの間で或る種の中間点の状態にあるのです。骨は私たちを絶えず強ばらせようとします。換言すると、骨は私たちを体的にもアーリマン化し、凝り固めようとするのです。血液は、私たち自身を超えて更にその先まで行こうとします。病理学的には次のように言うことができます。血液は熱を帯びることがあります。そうなりますと、人間の有機体も幻想に駆り立てられます。骨はその存在をその他の有機体の部分にまで拡げることがあります。そうなりますと、人間は骨化し、硬化します。ほとんど全ての人間が、ある程度まで老いるとそうなるのです。以上が病理学的に言えることです。人間の有機体の中には自分自身を死なせていく要素があるのです。それがアーリマン的なものです。私たちは次のように言えます。「血液の中にあるものの全てにルツィフェル的なものへの傾向があり、骨の中にあるものの全てにアーリマン的なものへの傾向があり、熱狂と冷めた俗物性の間の魂的な関連における均衡状態を保つ必要があるのと同様に、人間は、血液の中にあるもの全てと骨の中にあるもの全ての間の均衡状態を保つのだ。」と。
■Ⅰ-16 これらルツィフェル的なものとアーリマン的なものの両方の本性をある点でより深く特徴づけることもできます。ルツィフェル的な存在たちが宇宙に存在する中でいわばどのような関心を持っているのかを、私たちは見て取ることができます。そうすることで、ルツィフェル的な存在たちが世界を、それも特に人間界を、「人間の本当の創造者たち」と見做さねばならないあの霊的存在たちから叛かせることに、宇宙の中でとりわけ関心を持っているということが分かります。ルツィフェル的な存在たちは、この世界をいわば神的な存在たちから叛かせること以外には何も望んでいません。ルツィフェル的な存在たちがまずもってこの世界を我が物としようと目論んでいるかというと、そうではないのです。ルツィフェル的な存在たちの眼目は、この世界を我が物にすることではなく、むしろ人間が「自分たちにとっての本当の神的存在たち」と感じうるものから、この世界を叛かせること、つまり自由にすることなのです。このことは既に述べたいくつかのことから見て取ることができるでしょう。
■Ⅰ-17 アーリマン的な存在たちは或る別の目論みを持っています。彼らは断固として、とりわけ人間界を、そしてその人間界に付随する地球上のその他の諸世界を、自分たちの領界内に収め、自分たちに依存させ、まずもって人間そのものを支配しようと目論んでいます。かくして、ルツィフェル的な存在たちが、人類が神的なものとして感じることのできるものから人間を叛かせようとまず努力し、常に努力してきたのに対し、アーリマン的な存在たちは、人類と人類に属するもの全てを、自分の領界内に徐々に含めようとする傾向を持っています。
■Ⅰ-18 このように、本来、私たち人間が中へ組み込まれている宇宙の中では、絶えず自由を、即ち宇宙的(普遍的)な自由を求めているルツィフェル的な存在たちと、恒常的な権力と威力を求めているアーリマン的な存在たちとの間で、争いが存在しているのです。私たちがその只中に存在しているこの争いは、全てのものに浸透しています。どうぞ、以上のことを、今後の考察にとって重要な二つ目の理念として心にとめておいてください。私たちがその只中に存在しているこの世界には、ルツィフェル的な存在たちとアーリマン的な存在たちとが浸透しています。そして、ルツィフェル的な存在たちの自由にさせる傾向と、アーリマン的な存在たちの権力を追求する傾向との間には、激しい対立があるのです。
■Ⅰ-19 この事柄全てを考慮するならば、皆さんは「三体性に関して考慮したときにのみ、この世界を本当に理解することができる」と思うでしょう。というのも、一方にはルツィフェル的なものの全てが、他方にはアーリマン的なものの全てがあり、その真ん中に自分の神性をルツィフェル的なものとアーリマン的なものの両者間の均衡した状態にあるような第三のものとして感じなければならない人間を、私たちは立たせたからです。この三体性を基礎付けとし、人間の生命が天秤の竿のようであることを明確にすることによってのみ、この世界を適切に理解することができます(図2参照)。ここに天秤の竿の支点があり、その竿の両端に秤皿がぶら下がっています。右の秤皿をルツィフェル的なもの、左の秤皿をアーリマン的なものであると考えてください。一方のルツィフェル的なものの秤皿は、実際に上へ引っ張ります。もう一方のアーリマン的なものの秤皿は、実際に下へ引っ張ります。天秤の竿の均衡を保つこと、それが人間の本質です。このような三体性の秘儀に参入した者たちは、人類の霊的な進化発展の中で、人間の置かれている世界がただ三体性の意味でのみ理解でき、三体性以外の意味でこの世界の基本構造を把握しようとしてもこの世界を理解することはできないのだと常に強調してきました。そのため、私たちの言葉で言えば、次のように言ってしかるべきなのです。即ち、「私たちは、世界の中で、右の秤皿が意味するところのルツィフェル的なもの、左の秤皿が意味するところのアーリマン的なもの、そして均衡状態が意味するところのキリスト衝動と関わりを持っている」と。
■Ⅰ-20 さて、三体性のこの秘密を覆い隠すことは、アーリマン的な諸力やルツィフェル的な諸力に極めて有益なことである、と考えることができるでしょう。というのも、三体性のこの秘密を正しく把握することで、人類が、アーリマン的な諸力とルツィフェル的な諸力の間の均衡状態を確立することができるようになるからです。即ち、一方では自由への傾向の全て、つまりルツィフェル的なものを、他方ではアーリマン的なものを、世界の実りある目標のために用いるということです。この世界が三体性によって基礎づけられているという意味で、人間の最も正常な精神状態は、世界のこの三体的構造の中に正しい仕方で身を置くことの内に成り立つのです。
■Ⅰ-21 ところで、人間の精神生活及び文化生活に影響を与えるものの中には、この三体性の意味に関して人間を混乱させる強い傾向が、昔も今も存続しています。この存続中のことの源についてはきっとこれから明日と明後日にかけて綿密に説明することになるでしょう。人間をこの「聖なる三体性」と呼んでしかるべきものに関して混乱させる強い傾向が存続しているのです。そして、近世の人類の文化の中で、いかに三分節が、二分節によってほぼ完全に覆い隠されているかを、とても明確に見て取ることができます。次のことを考えてみてください。ゲーテの『ファウスト』を正しく理解するためにさえ、これまでしばしば述べてきたように(☆8)、この壮大な普遍的な叙事詩の中にまで、この三体性に関する混乱がもたらされているということを知っていなければならないのだと。ゲーテが、これらの事柄が本来どのような事情にあったかを、彼の時代に既に完全に見通すことができていたならば、彼はメフィストフェレスの力を、もちろん私たちはこのメフィストフェレスの力がアーリマンの力と同一であることを知っているわけですが、単にファウストの敵対者、ファウストを引きずり下ろす者として表現しただけではなく、ルツィフェルの力と対置して、ルツィフェルとメフィストフェレスの二者として『ファウスト』に登場させたでしょう。このことについては既にこれまで繰り返し詳しく説明してきました。ゲーテのメフィストフェレス像を詳しく調べれば、ゲーテがいたるところでメフィストフェレスの性格付けの中でルツィフェルの要素とアーリマンの要素をいかに混ぜこぜにしていたかをよく見て取ることもできます。ゲーテの下でメフィストフェレス像は、いわば二つの要素が混在しているのです。それは統一的な形象ではないのです。それはルツィフェルの要素とアーリマンの要素が乱雑に混ざり合っているのです。このことについては私の小冊子『ゲーテの霊性』の中で詳しく説明しておきました。
■Ⅰ-22 このようにゲーテの『ファウスト』へまでもたらされているこの混乱の根拠は——古い時代には違っていたのですが——近世の人類の進化発展の中で一定の方向に向かって顕著になった妄想にあります。つまり、この世界の構造を見て取るときに、三体性の代わりに、一方に善の原理、他方に悪の原理、神と悪魔といった二元論を据えようとする妄想です。
■Ⅰ-23 要するに次のように確言しなければならないことだけを念頭においてください。「この世界の構造を事実に即して覗き見るならば、三体性を正当と認めなければならず、ルツィフェルの要素とアーリマンの要素が向き合って対立していて、神性はその両者の間の均衡状態において存続しているということを正当と認めなければならないのだ」と。このことを、人類の霊的な進化発展に染み込んだ「神と悪魔」、「上なる霊的-神的な諸力と下なる悪魔的な諸力」といった二元論的な内容を備えた妄想と対峙させなければなりません。世の人びとはあたかも人間を均衡状態からいわば引きずり出し、圧迫しているかのようであり、この世界を本当に健全に理解するためには三体性を正しく把握しなければならないという事実を人間に隠し、何らかの仕方で世界の構造が二元論によって条件づけられているなどと人間に思い込ませているかのようであります。それにも関わらず人間の最善の努力がこの誤謬の虜になっているのです。
■Ⅰ-24 この問題に立ち入ろうとするならば、次のことをしなければなりません。第一に、一切の偏見を厳密に排して取り組むこと、つまり一気に偏見にとらわれない立場に身を置くことです。第二に、事柄と名称の間を厳密に区別することです。「或る存在に或る特定の名称を与えることで、その存在からして正しい仕方で人間に感じられていることにしておこう」などという説に惑わされなくてもよいのです。
■Ⅰ-25 人間が自分たちの神的な存在たちだと感じるべきであるあの存在たちの概念を摑むならば、「人間はルツィフェル的な原理とアーリマン的な原理の間の均衡を実現するものとして考える場合にのみ、この神的な存在たちを正しく感じることができる」と言わなければなりません。この三分節に立ち入らないならば、自分の神性として感じるべきものを決して正しいものとして感じることができないのです。こうした観点から、ミルトンの『失楽園』や、その影響を受けて書かれたクロップシュトックの『救世主』のような詩を考察してみましょう。そうしてみると、三分節的な世界構造の本当の理解について体験することはまずありません。体験することになるのはどちらも誤ってそれと思い込まれたところの善と悪の間の戦い、天国と地獄の間の戦いです。そして、人間の霊的な進化発展に二元論の妄想がかなり持ち込まれてしまっています。天国と地獄という妄想に満ちた対立として大衆の意識にしばしば根ざしているものが近世の二つの普遍的な叙事詩の中に持ち込まれたのです。
■Ⅰ-26 ミルトンやクロップシュトックが天国の存在たちを神的な存在たちと名付けても意味がありません。人間は、世界の三分節的構造に基づいてこそ、神的な存在たちを感じることになるのです。そうなれば、「そこでは善の原理と悪の原理の代わりに、ルツィフェルの原理とアーリマンの原理の間の争いが見出される」と言うことができるでしょう。しかしながら現状では二元論が仮定され、この二元論の一方に善の要素が付され、実際に神的なものから得た存在たちに付される名が見出されていますし、もう一方には悪魔的な要素、反神的な要素が付されています。それによって、実際のところ何がなされたのでしょうか。それは、真に神的なものが意識の中から外へ取り出され、ルツィフェル的なものに神的なものの名が付されたということに他なりません。実際に存在するのはルツィフェルとアーリマンの間の争いなのですが、単にアーリマンにルツィフェル性が付され、ルツィフェルの国に神性が付されただけなのです。
■Ⅰ-27 このような考察が実際にどれほど途方もない範囲を占めているかが見えてくるのです。人々は、ミルトンの『失楽園』やクロップシュトックの『救世主』に見出されるような対立が、神の要素と地獄の要素を相手にしているものだと思っていますが、実のところその対立は、ルツィフェルの要素とアーリマンの要素を相手にしているものなのです。真に神的な要素についての意識はなく、それと引き換えにルツィフェルの要素に神的な名が付されているのです。
■Ⅰ-28 ところで、ミルトンの『失楽園』やクロップシュトックの『救世主』などは、ちょうど単に近世の人類の意識の中から際立っている精神的創作物でしかありません。というのも、こうした詩の中で展開されているものは、人類の一般的な意識であるからです。これはかつて、二元論の妄想がこの近世の人類の意識の中に入り込み、三体性の真理が差し控えられた結果なのです。人類が近世にもたらした最も深いもの、人類が或る一定の観点からは近世の最大の成果と正当にもみなしたものは、文化的マーヤーであり、大きな欺瞞であり、近世の人類の大きな欺瞞に由来するものなのです。この妄想の中で作用するものは全て、根本的にアーリマンの流れ込みによる働きかけを受けた創作物です。その流れ込みは既にお話しした「アーリマンの受肉」においていつか凝縮することになります(☆8)。というのも、この妄想——私たちはこの妄想の只中に存在しています——は、近世の文化・文明の人々が天国と地獄とを対置するという仕方で、彼らの利益になるようにこの世界のいたるところから芽生えてくる、あの誤った世界考察の結果以外の何ものでもないからです。彼らが描き出すように天国が神的なものと見做され、地獄が悪魔的なものと見做されるのですが、実のところは、一方では天国的なものと名付けられたルツィフェル的なもの、他方では地獄的なものと名付けられたアーリマン的なものを相手にしなければならないのです。
■Ⅰ-29 私たちはただ、近世の精神史の中でどのような利害関心が作用しているかを考えてみさえすればよいのです。これまでしばしば言及してきましたように、869年の第4コンスタンティノポリス公会議(カトリックが認める通算8回目の公会議)によって、人体組織或いは人間存在全体の三分節でさえも、或る意味で西方の文明の利益になるようにこの世界からもみ消されました(☆10)。それは、「キリスト者は人間存在を三分節的なものではなく、ただ二元論的なものであるとのみ信じなければならない」という教義にまで高められています。体・魂・霊を信じることは禁忌と見做され、まだ真理についてよく知っていた中世の神学者たちや哲学者たちは、この真理を避けようと大変な苦労をしました。というのも、いわゆる三分節、即ち体・魂・霊の分節は異端であると、この公会議で宣言されたからです。彼らは、「人間は体・魂・霊から構成されているのではなく、体・魂から構成されている」という二元論を教えざるを得ませんでした。つまり、二分節が三分節に取って代わることが、人間の精神生活にとってどれほどとてつもない意味を持っているかを、或る存在たち、或る人々がよく知っているということなのです。
■Ⅰ-30 イエズス会のツィンマーマン神父は、『時代の声』の11月号の中で、ローマの聖務の近年の教令の一つがカトリック教徒に、告解で罪の赦しを得られないという罰則の下で、神智学的な著作を読んだり、所有したり、とにかく何か神智学的なことに参加したりするのを禁止しているということに注意を喚起しています。それがなぜなのかを正しく理解しようとするならば、今しがた取り上げたような深みに目を向ける必要があります。ツィンマーマン神父は、かつては『マリア・ラーハの声』と名付けられていたその『時代の声』の中で、今しがた取り上げたローマの聖務の禁止令が何よりも私の人智学に適用され、従ってローマから真正のカトリック教徒と見做されたいと思うそのカトリック教徒は、人智学の文献に関わり合ってはならないということに何よりも注意を向けなければならない、というふうにその禁止令を解釈しています。その主な理由の一つとして、私の人智学では、人間存在が体・魂・霊に区別されており、従って人間を体・魂に区別することに立脚する正統信仰と比較して異端が教えられているということが挙げられました。
■Ⅰ-31 既に述べたことですが、体・魂のこの区別は、自覚されることなく現代の哲学者たちに受け継がれています。彼らは、偏見のない無前提な学問を実践していると思っています。「人間とは体・魂から成り立つのだ」。彼らはこのことに納得するために本当によく観察していると思っているのです。実のところは彼らも、あの869年の第4コンスタンティノポリス公会議で取り決められた教義を経て、近世に精神的進化発展を遂げたものにただ従っているだけなのです。こんにち、学問と見做されているものは、根本的に人類の近世の進化発展の過程でこの世界の中に設定されたこうしたものに全く依存しています。皆さん、どうか、皆さんがしばしば善いと思うような何らかの言葉を、以上のような二元論・二分節の立場から異端者の烙印を押す世の人々に教えなければならないなどとは思わないでください。こうした世の人々を変えることができるとか、或いは人智学に対する或る種の好意に変えることができるなどとは思わないでほしいのです。このような方面から人智学を誹謗中傷する人々を、優しい言葉で改心させることができるとは思わないでください。彼らを説得して人智学への善意を呼び起こすことができるとは思わないでほしいのです。人智学は、それがどんなにキリスト教的と見做される権力者であっても、誰かの庇護でではなく、自らの手でこの世界に参入しなければなりません。内的な力によってのみ、人智学はこの世界の中で達成すべきことを達成することができるのです。
■Ⅰ-32 キリスト衝動は、それをアーリマン的なものとルツィフェル的なものの間の均衡のとれた衝動と見做し、三体性へ正しく据える仕方を知っている場合にのみ把握することができるのだと考えてください。次のように問いを投げかけることができます。もしも真のキリスト衝動について人々を欺こうとするならば、何を為す必要があるのかと。その場合には三体性を基準とする世界の真の分節から人々の注意をそらさせ、二元論の誤りへと導く必要があります。二元論は、顕現しているものが問題である場合にのみ正当性を有するのであり、顕現しているものの背後にあるもの、つまり真実の領域にあるものを得ることが問題である場合には正当性を有しません。
■Ⅰ-33 このような問題においてはどうしても単なる名を超える必要があります。何でもかんでもキリストと名付けるのは、キリストを的確にとらえていないことになります。三体性の代わりに二元論を据えるなら、キリストがキリストの名によって的確にとらえられることを妨げることができます(☆11)。誰でも彼でもキリストの正しい概念を得ることを確実にやめさせようとするならば、その人は三体性の代わりに二元論を据えるだけでいいでしょう。そしてそのあとで本当の意味でのキリスト衝動を再び指し示すことになるならば、二元論に三体性を対置する必要があります。異端を宣告する者たちと一緒になって同じく異端を宣告する者となる必要もありません。今日からミルトンの『失楽園』やクロップシュトックの『救世主』を忌々しい悪魔的著作だと解釈する必要はなく、もちろんその美しさや偉大さを享受し続けることができます。しかし、これらのような著作の中には、それらの著作がまさに大衆に普及している人類の近世の文明の精華である限り、キリストのことはそもそも書かれておらず、むしろそれらの著作が、次のような誤謬から生じているということを明らかにすべきです。即ち「一方で人類の発展に属さないものは何であれ、悪魔的なものに取り入れられることが許され、他方では神的なものが受け入れられている」というような誤謬からです。違うのです。単にルツィフェル的なものが受け入れられているにすぎないのです。試みに『失楽園』を書きとってみるならば、その時には実際にはルツィフェルの国からアーリマンの国へ人間が追放されたことを描いているのであって、人間の神的なものへの郷愁を描いているのではなく、喪失した楽園への郷愁、即ちルツィフェルの国への郷愁を描いているのです。皆さんはミルトンの『失楽園』やクロップシュトックの『救世主』の中に人間のルツィフェルの国への郷愁が美しく描かれているのを見て取るかもしれません。しかし、まさにそれこそが皆さんが内部に見て取るべきことなのです。というのも、それがそれらの著作の正体だからです。
■Ⅰ-34 近世の人類に染み込んでいるある種のイメージを、全面的に見直さなければなりません。人智学的に考え、感じようと真剣に取り組んでいるこんにち、私たちは、小さな決断ではなく、大きな決断を迫られています。私たちは、ニーチェがしばしば用いていた言葉をとても真剣に受け取る必要に迫られているのです。或る種の価値の価値転換という言葉です(☆12)。この言葉を、とても真剣に受け止めなければならないのです。近世の人類の成果は完全に価値転換されなければならないのです。
■Ⅰ-35 それ故に異端を糾弾する者になる必要も全くありません。私たちはゲーテの『ファウスト』の何幕かをいつも上演しています。そして私はゲーテの研究のために何十年も費やしてきました。そして、私の小冊子『ゲーテの霊性』から、私がゲーテのメフィストフェレス像の中に宿っている誤った性格付けに対して目を瞑らなかったことを読み取ることができるでしょう。「ゲーテのメフィストフェレスは贋者であるから取り除けてしまえ」というのは、全く俗物的な言い方でしょう。それは或る意味で異端審問官がしていることと同じでしょう。私たちは現代の人間としてこのような立場に立ってはならないのです。近世の精神生活から非常に幅広い大衆の血肉のようになったものの下で安易に満足してもいけません。とてつもなく多くのことを人類は学ばなければならないでしょう。多くのことに関して人類は価値転換しなければならないのです。
■Ⅰ-36 以上の全ては、あの高次のヒエラルキア存在たちと向き合っている大天使ミカエルと関連しています。ミカエルはミカエルであの高次のヒエラルキア存在たちと結びついているのです。ミカエル存在から私たち地球上の人間存在に放射されるあの衝動をどのように理解することができるようになるのか、それについては明日と明後日にお話ししたいと思います。
【訳者註】
☆1)Noteに掲載した『ルドルフ・シュタイナーのGA194:Die Sendung Michaelsは「ミカエルの使命」なのか?-講義の読み方の提示①-』及び『ルドルフ・シュタイナー「大天使ミカエル」(GA194):人間(ミクロコスモス)と地球(マクロコスモス)の照応関係について-講義の読み方の提示②-』を参照。
☆2)Noteに掲載した『ルドルフ・シュタイナー「大天使ミカエル」(GA194):人間(ミクロコスモス)と地球(マクロコスモス)の照応関係について-講義の読み方の提示②-』を参照。
☆3)『社会問題の霊的背景』Ⅲ巻『霊学的認識からの社会理解』(GA191)のこと。
☆4)「形態霊」は偽ディオニュシオスの『天上位階論』の中級三隊・第六位のエクスシーアイ(能天使)に該当する。人間より四段階高次の霊的意識を有し、鉱物以外のもののかたち(フォルム・現象形態)を成さしめることに携わったとされる霊的存在である。なお、シュタイナーの人智学では『ヨハネ福音書』のロゴス(コトバ)や『創世記』を始めとする旧約聖書のエロヒームがそれに該当するとされる。エロヒームはシュタイナーによれば七柱存在し、そのうちの一柱がヤーヴェであり、残りの六柱がナザレのイエスに宿ったキリスト存在であるとされる。形態霊は人間に自我のかたちを与えた存在ともされる。私見では、本講義において九つ存在する霊的ヒエラルキア存在の階級を敢えて形態霊までで止めているのには恐らく理由があると思われる。この形態霊が本講義全体を通じてどのように描写されているかを追うのが難しい(訳者も追いきれているかどうかの確証はない)が、本講義を読む上で注意深さを必要とする一つのカギとなるところではないかと思われる。
☆5)ここまでの説明(に第五講のアーリマンに関する記述も含めて)をまとめると以下のような図が得られる。
☆6)「天体領域」の原語はSphäreであり、英語のSphere(スフィア)にあたる。■Ⅰ-7~13段落目までSphäreは、基本的に同じく惑星の進化発展プロセスにかかわる語として用いられていると考えられる。第三講で用いられている図も参照。なお第八天体領域(天体領域Ⅷ)についてはGA184『人間の生における持続と進化発展の両極』の1918/9/8を参照すると、そこが神の王国、霊の王国と呼ばれていることが分かる。以下は本講義の全体とGA184の記述を訳者なりにまとめたものである。形態霊は根源の世界叡智(宇宙叡智)にとって、人間でいうところの肉体に当たり、「人間を顕現させる世界霊(宇宙霊)」の末端に当たる。本講義で形態霊までで説明が止まっているのは、このあたりの事情をすぼめた上で、重点的に述べるべきところに焦点を絞って説明しているのではないかと思われる。
☆7)Noteに掲載した『ルドルフ・シュタイナー「大天使ミカエル」(GA194):人間(ミクロコスモス)と地球(マクロコスモス)の照応関係について-講義の読み方の提示②-』を参照。
☆8)『ゲーテ「ファウスト」の霊学的解明』Ⅰ-Ⅱ巻(GA272/273)を参照
☆9)「アーリマンの受肉」については『社会問題の霊的背景』Ⅲ巻『霊学的認識からの社会理解』(GA 191)の1919年11月1日と2日の講義の中に説明がある。邦訳では松浦賢訳『悪の秘儀-アーリマンとルシファー-』で読める。付録の「4.アーリマンが受肉すると何が起こるか」(p.201-204)「8.ルシファーとアーリマンの協力関係について」(p.208-211)を参照。なお、同訳書に収録されている4つの講演とその他の付録は本書と並行している講義内容を含んでいるため、こちらも参照。
☆10)コンスタンティノポリス総主教フォティオス1世に対して組織されたこの公会議の『フォティオスを駁する教理典範』では、その11条で、人間は「二つの魂」を持っているのではなく、「一つの理知的な魂」を持っていると定められている。シュタイナーに高く評価されていたカトリックの哲学者オットー・ウィルマンは、3巻からなる著作「観念論の歴史」(第1版、ブランズウィック1894年)の中の「§54:古代観念論の完成形としてのキリスト教観念論」(第2巻、p.111)に次のように記している。「グノーシス主義者が、パウロによる霊的人間と魂的人間の区別を悪用し、霊的人間を彼らの完全性の表現だと偽証し、魂的人間を教会の掟にとらわれたキリスト教徒の代表と宣言したことで、教会は三分節を明確に否定することになった」。実のところこの種の論争は実際には869年よりも前からすでに始まっている。シュタイナーが生きていた当時には発見されていなかった『ナグ・ハマディ文書』(1945年に発見された)でも869年よりかなり前から、つまりグノーシス派が生まれ、隆盛した当時(1~4世紀)から、このあたりの同じような論争の事情があったことを見つけることができる。『キリスト教教父著作集』(教文館)、『ナグ・ハマディ文書』(岩波書店)などを参照。なお、この公会議はフィリオクェ問題が取り扱われたことでも知られている。この問題は、父なる神と子なる神の区別がつかなくなっていく過程の一大事件として重大な意味を持っている。本講義では直接フィリオクェ問題が取り扱われているわけではないが、第四講の■Ⅳ-37ではハルナックの『キリスト教の本質』を例に、もはやキリスト教においては父なる神と子なる神の区別がつかなくなっているという問題が取り上げられている。
☆11)二元論ではキリストがキリストの名によって的確にとらえられないという問題は、それ自体が阿修羅状態(āsura bhāva)=「死人」となっているという問題と密接に関連しているように思われる。阿修羅状態と死人については第三講の■Ⅲ-28の註☆14を参照。
☆12)シュタイナーは「或る種の価値の価値転換」(der Umwertung gewisser Werte)と言っているが、ニーチェの言葉に即して言えば、恐らく「あらゆる価値の価値転換」(Umwertung aller Werte)のことである。ニーチェが最終的にはその著作計画を廃棄した『権力への意志』の副題が「あらゆる価値の価値転換の試み」となっている。ニーチェは『権力への意志』の著作計画を断念した後、『あらゆる価値の価値転換』という名を冠した四部作構成の新しい著作計画を立てており、『反キリスト者』がその第一部として予定されていた。しかし、ニーチェはこの計画もまた廃棄して、『反キリスト』を『あらゆる価値の価値転換』そのものであるとみなし、これを『反キリスト者』の副題に添えた。最終的には副題としてのそれも削られ、「キリスト教呪詛」という副題に置き換えられた。このような変更の経緯があるにせよ、シュタイナーが言うように『反キリスト者』が「「あらゆる価値の価値転換」の最初の本」であることは間違いない(シュタイナー『ニーチェ-同時代への闘争者-』西川訳p.123)。その『反キリスト者』の中で「あらゆる価値の価値転換」という言葉が見出されるのは§13と§62であるが、ここでは§13から私訳で引用しておく。
「次の事実を軽く見ないようにしよう。我々自身が、我々自由な精神が、既に「あらゆる価値の価値転換」であり、「真理」と「非真理」についての旧態的な概念全てに対して身をもってした宣戦布告であり勝利宣言であることを!最も価値ある洞察は最も遅く発見される。そして最も価値ある洞察とは方法のことだ。我々が目下実行してみせている学問的なこと[訳註:Wissenschaftlichkeit=「華やぐ知慧(la gaya scienza=die fröhliche Wissenschaft)」のこと]の前提一切や方法一切は、幾千年もの長きに亘って、世の人々の最も深い軽蔑を敵に廻してきた。それらによって我々は「真っ当な」人々(オネットムたち)との交際から排除され、「神の敵」、真理の軽蔑者、「憑かれた者」と見做されてきた。学問的な性格の持ち主であるからにはチャンダーラというわけだ…。我々は人類の全パトスを敵に廻してきた。真理とは何であるべきか、真理への奉仕とは何であるべきか、これらについての彼らの概念を敵に廻してきたのだ。あらゆる「汝為すべし」[という定言命法]が、これまで我々に対して照準を合わせてきたのである…。我々の目的、我々の実行、静かで、慎重で、疑い深い我々の態度——これら一切が、人類には全く品位のない軽蔑すべきものに見えたのだ。最後に「人類をこれほど長い間めくらにし続けてきたのは、そもそも一つの美的な趣味ではなかったか」と自問してみるのも、あながち不当なことではないだろう。人類は真理に、一種の絵画的効果を求め、同時に認識する者たちに、その効果が感覚に強く作用することを求めたからである。我々の謙虚さは、長い間人類の趣味に反してきた…。嗚呼、彼らは、この神の七面鳥どもは、どうやってこのことを察知したのだろうか?——(ニーチェ『反キリスト者』§13 私訳)
シュタイナーの初期哲学的著作の一つであるGA5『ニーチェ-同時代への闘争者-』に基づいて、訳者なりにシュタイナーのこの「或る種の価値の価値転換」という言葉の使い方を考察すると、ニーチェの問題点をも超克したシュタイナーなりの立場が出てくるように思われる。シュタイナーによれば、ニーチェは感覚的衝動に関しては自分の個性を発揮していたが、精神的衝動という点では因習などの外的な権威に束縛されていた。ニーチェは確かに善悪の彼岸の立場にまではたち得たが、この感覚的衝動と精神的衝動の不一致が、ニーチェの思想内容の唯物論的傾向・アーリマン的傾向を免れえないものにしたというのである。本講義第三講のアーリマンについての言及を踏まえると、上記の『反キリスト者』の引用からは、「汝為すべし」というルツィフェル的な普遍衝動(『ツァラトゥストラ』の「精神の三態変化」の章に登場する黄金の龍)との闘争劇の中で、意志衝動に働きかけてそれを個別化するアーリマン的なもの(『ツァラトゥストラ』における「我欲す」の獅子)を感じることはできる。しかしニーチェの「あらゆる価値の価値転換」という言葉は、従来の二元論的相剋状態の枠組み、つまり「ルツィフェルかアーリマンか」の二者択一の枠組みからは抜けておらず、かえってその二元論における善悪の価値観をひっくり返すだけにとどまってしまっている。これに対してシュタイナーがこのニーチェの言葉に仮託して語る時、彼は「ルツィフェルかアーリマンか」の二者択一ではなく、ルツィフェルとアーリマンの均衡のとれた「キリストの中に死ぬ」=「私ではなく私の中のキリストが生きる」という三位一体的対極の統一状態への移行を語っていると思われる。特に■Ⅲ-7及び■Ⅲ-22と、後者の註(☆10)を参照。
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