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建徳的物語としての『灰羽連盟』-間奏・ストーリー全体を俯瞰して-

祈 り

 天にいます父よ!我々の心が祈りと願いによってあなたの前に開かれ、そしてあなたの意に沿わないと我々が知っているどんな内密な望みをも懐かず、しかしまた、真実に我々の最善のためになるものをあなたが我々に拒まれるかもしれぬというどんな秘かな恐れをも懐かないように、正しく祈ることを我々に教え給え。また、労する思考、不安な気分、気がかりな心が、そこにおいてのみ、そしてそれによってのみ、憩いが見出されるそことそれによって、憩いを見出せるように。即ち、あなたに対して我々は常に正しくないということを、我々が喜ばしく告白することによって常に喜ばしくあなたに感謝することで憩いが見出せるように、正しく祈ることを我々に教え給え。アーメン。(大谷長監修『キェルケゴール著作全集2』『これか-あれか』第二部『最後の言葉』p.507)

 こちらは次なる『灰羽連盟』の解釈について取り上げるにあたっての、間奏としての挿入です。前回の解釈で取り上げたのは「クウにおける開示真理と単独者としての旅立ち」でした。前回の解釈で私はクウとレキの物語とではテーマ的にズレを感じざるを得ない、ということを指摘しておきました。私の解釈において、このズレはどのように感じられるかと簡単に言いますと、次のようになります。『灰羽連盟』の劇中では「クウは皆の手本になりたかったからこそ誰よりも早く巣立っていった」と言われました(ただしこれはレキの内心を映し返した「話師」の発言)。しかし、クウは『灰羽連盟』のほかのキャラクターにおいて手本となることはなく、レキの物語においては同じようなことが繰り返されたわけではありませんでした。『灰羽連盟』のストーリー全体で見た場合、劇中において旅立った灰羽の描写があるのは、ご存知の通りクウとレキの二人であり、この二人の物語の間に、主人公ラッカの物語が挟まり、そのラッカの物語を折り返し地点として、レキの物語がクウの物語との間にセーレン・キェルケゴールが言うところの「相互対論(弁証法)」的関係を築いています。ラッカはクウの旅立ちによりショックを受けながらも、空の鳥に導かれ、クウの旅立ちを「既成のもの」として認めつつ、そのショックを乗り越え、真名の開示に象徴される自身の本質の「受取り直し」を通じて「隣人愛」という「愛の業」へと「覚醒」(丁:Opvækkelse)する、というのが私のラッカの物語についての大雑把な解釈です。そしてレキの物語において、この隣人愛に覚醒したラッカが、絶望という絶望の極致に堕ち、罪という罪に憑かれたレキを最終的に救うことになるわけですが、このラッカとレキの物語が、クウの物語に対する「矯正剤」となることで、ストーリー全体において、クウとレキの物語の相互対論的関係が成立しています。これはどちらのテーマが正しいとか良いとかを論じようとするものではありません。私の解釈では、クウの物語においては「単独者としての旅立ちによる救済」、レキの物語においてはラッカともども「隣人愛による絶望[=罪]からの救済」とそれぞれに括ることができるようなことが主要テーマとなっており、クウとレキの二人の物語の間にラッカの物語があたかも転換点のごとく挟み込まれ、クウの物語という「既成のもの」に対してレキの物語が「矯正剤」となっている、と見受けられます。今しがた私は「既成のもの」と「矯正剤」という概念を断りなく使ってきましたが、これらも相互対論と同じくキェルケゴールが用いた概念です。念のためキェルケゴールがこれらの概念によって何を説明したいかの補足として、彼自身が明晰判明に定義している次のような記述を引用しておきたいと思います。「既成のものに対する“矯正剤”とみなされる私の活動。“矯正剤”というのは、ここ-そこ、右-左というような反省規定である。さて、“矯正剤”を提供すべき者は既成のものの弱い面を厳密かつ徹底的に研究し-その逆を一面的に、効果的な仕方で一面的に提示しなければならない。この点にまさしく“矯正剤”の本分があり、そこにまたそれを行う者の諦めもある。“矯正剤”はだからある意味では既成のものを利用するのである」(大谷長監修『キェルケゴール著作全集10』付録No.6「『愛の業』のモチーフ」p.3-4)。これは逆に、「矯正剤」によって「既成のもの」も際立つことを暗に含んでいます。クウの旅立ちがどれだけ異様であるかは既に前回の解釈で示したところですが、恐らくこれ以降の解釈によってその異様さがより際立つことになると思われます。「既成のもの-矯正剤」という相互対論的関係が、そのまま「クウの物語-レキの物語」に妥当するのであり、テーマとしては「単独者としての旅立ちによる救済-隣人愛による絶望[=罪]からの救済」という相互対論的関係として見出されるのです。同じことを繰り返し述べることになりますが、私が以前「ズレを感じる」として感得したこの「相互対論」的関係は、次のようにまとめることができます。「クウの物語とレキの物語。両者の主要テーマは「単独者としての旅立ちによる救済-隣人愛による絶望[=罪]からの救済」という相互対論的関係として対立する。この両者の主要テーマを近づけようとすると、触れ合った瞬間に忽ち両極端に離れてしまうものであって、そのような反発的接触以上には決して近づくことができない。しかし両者の主要テーマは同じ一点を目指している。その一点とは「救済」というテーマである」。

 私はこの相互対論的関係を『灰羽連盟』のストーリー解釈において鮮明にすることこそ、『灰羽連盟』の魅力を余すところなくあらん限りに増幅させることができるのではないかと考えています。もともとストーリーの最初から潜んでいることではありましたが、以上のように、クウの旅立ちの事件を境にしてストーリーの表舞台に大々的に出てくるテーマは、ひとくちには、「建徳的物語」であるということができるのではないかと考えます。「建徳的」というのはこれもまたキェルケゴールからの借用です。この「建徳」というのは『コリント前書』8章1節の「愛は徳を建つ」というところと関連があります。「建徳」とは、「単なる量的な知識の集積をこととするのではなく、専ら精神の深みから信仰を打ち立てること」を意味します。キェルケゴールは、彼が把握するところのキリスト教的な意味で、『ロマ書』8章28章の「神を愛する者、即ち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」という言葉に準えて、「実に全てが建徳のために奉仕すべきである」と述べています(大谷長監修『キェルケゴール著作全集12』『死に至る病』p.211)。『ルカによる福音書』6章47-48節には「凡そ我にきたり我が言を聽きて行ふ者は、如何なる人に似たるかを示さん。 即ち家を建つるに、地を深く掘り岩の上に基を据ゑたる人のごとし。洪水いでて流その家を衝けども動かすこと能はず、これ固く建てられたる故なり」とありますが、キェルケゴールはこの「家を建つる」ということにかかわる文を、先の『コリント前書』の「愛は徳を建つ」という言葉そのままの意味で捉えています。この時点で前の解釈をお読みいただいた方には、きっと違和感があることを感得していただけるのではないかと思います。というのは、前の解釈で私は、クウの「開示真理」=「気づき」からの行動が、『トマスによる福音書』§71の「私は家を壊すであろう。そして、誰もそれを再び立てることができないであろう」に相当するものだと述べておいたからです。しかし、これはただ一人劇中においてグノースティカー(グノーシス者)として旅立っていった彼女に焦点を当てた場合の解釈であり、彼女によって壊された「家」(「世界」或いは「家族」)は文字通り、彼女を欠くこと自体の意味でも、また彼女が残していった灰羽たちへの衝撃の意味でも、完全に元通りに戻ることはできません。クウが開示真理[=グノーシス](これについての語法は前回の解釈を参照してください)によって単独者として「神の王国」=「光の超越的世界プレーローマ」=「無」へと「過ぎ去り行く者(旅行く者)」として、ふっと消え去っていった様は、「我が家にあらざる」=「不気味さ」(独:unheimlich)を醸し出す、劇中のキャラ並びに我々鑑賞者の「不安」(独:Angst)を煽るような描写として描き出されているのではないか、と書いておきました。これによりクウに置いて行かれた劇中の灰羽たちは、クウを理解できず、阻止することもできず、祝福を交えながらも、悲嘆に暮れる結果になります。クウの旅立ちはこれまで彼女が親しくしていた「オールドホーム」=「家(家族)」の灰羽たちのつながりを壊しました。想像してみていただきたいのですが、もしもクウの物語だけで、もしくは灰羽たちが旅立つさまがクウのような旅立ち方のみで描写されたなら、どんな物語になったでしょうか。前の解釈において引用した『トマスによる福音書』§71「私は家を壊すであろう。そして、誰もそれを再び立てることができないであろう」や、前の解釈において引用した「自己自身を見出す者に、この世は相応しくない」(§111)、「過ぎ去り行く者(旅行く者)となりなさい」(§42)ということに集約されるだけの物語で終わっていたのではないでしょうか。『灰羽連盟』のクウの事件以後の話は、クウのことはたとえ取り残された灰羽たちにおいて思い出として残り続けるにしても、それは他者との間にある無限の深淵を乗り越えて旅立っていったクウ自身には全く関係がありません。そのような物語が繰り返されるだけだったとしたら…?ハンス・ヨナスの言葉を借りて言えば、クウに見られるのは、ヨナスがグノーシス的な「現存在の根本的姿勢」を支える主導的な動機だというところの「脱世界化」(独:Entweltlichung)という点に尽きることなるのですが、このクウの、ふっと消えていき、そのあとのことがクウとは全く関係がないということと、後に取り残された者たちという構図について、私は『灰羽連盟』を見るとき、いつも引っ掛かりを覚えてしまうのです。それはやはりグノーシス文書を読むときの引っ掛かりとよく似ています。何が言いたいのかというと、この「脱世界化」という、グノーシス的な現存在の根本的姿勢を支えている動機は、極端に推し進めていくと「現実の「世界」(世界内部的な存在者の総体)を我々における課題とすることを全くやめてしまう」、つまり「世界拒否」という現存在姿勢を示しているという点です。現実の「世界」への当然の喜びを自分の中から排除し、現実の「世界」に全く依存しないようにし、そして現実の「世界」に関心を持つことを一切拒否する、そういった「世界拒否」的な態度です。現実の「世界」はこの「世界」の中に投げ込まれている他所ものが開示真理=グノーシスによって本来的自己に覚醒したのちは全く無意味に映るのです。グノースティカーにとって現実の「世界」は、人間の本来的自己の住居としては仮の宿といった程度のものであり、本来的自己という光の断片が回収されるべき舞台ではあっても、「世界」それ自体は救済の対象にならないのです。第七話のタイトルにもなっていますが、クウが残した「傷跡」(特にラッカにもたらした「傷跡」)はこの「世界拒否」によって、現実の「世界」を課題として人間にとって益となる方向へと変革させることなどは無意味である、ということをまざまざと見せつけたことにあります。ラッカは疑問に感じます。「クウはそれでいいの?」と。クウはそれでいいからこそ去って行ったので、ラッカのこの言葉はそこでは虚しく響くのみです。しかしこれを受けたラッカの苦悩と試練の物語は、ちょうどこのクウによってラッカに残された「傷跡」「病」をなんとか克服する方向になっています。しかし劇中では、「病」とか「罪」とかいうキーワードがあまり明確でない上、それらが何によって克服されたのかということについてもあまり明確に語られていません。従って解釈を入れることになりますが、私見では、ラッカはクウやグノーシス文書と同じ「世界拒否」ではなく、その「世界拒否」の脅威に対し、目の前の現実の「世界」を、「家」を、放棄できない課題として、「隣人愛」という「愛の業」へと「覚醒」することによって、「建て直す」=「受取り直す」ことによって、自らの苦悩と試練を乗り越えたのだと解釈しています。その苦悩と試練は、覚醒し建徳する過程だったのだと。「わが兄弟よ、汝ら各樣の試錬に遭ふとき、只管これを歡喜とせよ。そは汝らの信仰の驗は、忍耐を生ずるを知ればなり。忍耐をして全き活動をなさしめよ。これ汝らが全くかつ備りて、缺くる所なからん爲なり」(『ヤコブ書』1章2-4節)。現実の「世界」を課題とするということには当然、自己と他者、人間に対する関心、人々の間での出来事と行動に対する感情等々、こういったものがその課題の中に含まれます。新約聖書は人間にとっても神にとっても「世界」が課題であるということを明瞭に語っています。「我思うに、今の時の苦難は、我らの上に顯れんとする榮光にくらぶるに足らず。それ造られたる者は、切に慕ひて神の子たちの現れんことを待つ。造られたるものの虚無に服せしは、己が願によるにあらず、服せしめ給ひし者によるなり。然れどなほ造られたる者にも滅亡の僕たる状より解かれて、神の子たちの光榮の自由に入る望は存れり。我らは知る、すべて造られたるものの今に至るまで共に嘆き、ともに苦しむことを。然のみならず、御靈の初の實をもつ我らも自ら心のうちに嘆きて、子とせられんこと、即ちおのが軆の贖はれんことを待つなり」(『ロマ書』8章18-23節)。「それ神はその獨子を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして、永遠の生命を得んためなり。神その子を世に遣したまへるは、世を審かん爲にあらず、彼によりて世の救はれん爲なり」。ここには、「世界拒否」のグノースティカーとしてのイエス・キリストとは異なった側面が出てきています。また「建て直し」=「受取り直し」ということに関しては、次のような言葉があります。「我は手にて造りたる此の宮を毀ち、手にて造らぬ他の宮を三日にて建つべし」(『マルコによる福音書』14章58節)、「我神の宮を毀ち三日にて建て得べし」(『マタイによる福音書』26章61節)、「汝ら此の宮をこぼて、我三日の間に之を起さん」(『ヨハネによる福音書』2章19節)、「此の所を毀ち、かつモーセの傳へし例を變ふべし」(『使徒行伝』6章14節)。これらは神殿破壊とその「建て直し」=「受取り直し」について語った言葉で、先に挙げた『トマスによる福音書』§71と比較すると、こちらが「建て直し」=「受取り直し」の側面がないのと対照的です。キェルケゴールは、世界に対する「無関心な」知識を斥けながら次のように言っています。「世界とは人間にとって何を意味し、また人間とは世界にとって何を意味しなければならぬか、このことについての懸念が、人間のこころに目覚めた瞬間に初めて、その時初めて、この懸念の内に、内なる人間が現れるのである」(桝田啓三郎訳『キルケゴール』『三つの建徳的談話』p.287)。これは建徳的なものである隣人愛という愛の業への覚醒が「自己自身に対する懸念」や「自己自身を得ようとして心を砕き努力すること」に存しているということを含んでいます。このことが劇中罪憑きとなったラッカ、及び生まれつき罪憑きであるレキの「罪」=「絶望」、キェルケゴール的に言えばそのまま「死に至る病」と呼ばれることと密接なかかわりを持っています。キェルケゴールは建徳的なものである愛の業は「我々が神に面と向かっては常に正しくない」という考えに存していると述べています。これは「自己自身に面と向かっては常に正しくない」という考えに存しているということを内包しています。というのは、キェルケゴールにおいて「自己」とは「精神」=「聖霊」だと言われるからです。神は聖霊であり、聖霊は神の第三位格として神です。「…我汝らに告ぐ、人の凡ての罪と瀆とは赦されん、されど御靈を瀆すことは赦されじ。誰にても言をもて人の子に逆ふ者は赦されん、されど言をもて聖靈に逆ふ者は、この世にても後の世にても赦されじ」(『マタイによる福音書』12章31-32節)。灰羽の羽が「罪に憑かれる」と黒くなるのは、「自己自身に対する懸念」や「自己自身を得ようとして心を砕き努力すること」を欠いて自己=精神=聖霊を冒瀆しているからです。これでは神からは恩寵はもたらされないし、救済もなく、赦されないのです。建徳的なものである隣人愛という愛の業への覚醒は、この罪=絶望を苦悩=試練の過程として、「我々は神ないし自己=精神=聖霊に対して面と向かっては常に正しくない」という考えに存して、神による救済の可能性のみが信頼(信仰)に値するのだと気づくことを前提としています。この視点からこそ、『灰羽連盟』というストーリーにおいては漠然としていてよくわからない「罪」やその治癒、及び救済についての謎にメスを入れることが可能であろうと思われます(この視点は、劇中漠然としている鳥についての謎にもメスを入れることになります)。

ここでは間奏として大雑把な見方を提示するにとどめます。私がこれを間奏として挿入しておきたかったのは、以上に見たように、クウが起こした事件を契機として、ラッカの苦悩と試練の物語が前面に出てくるようになるとはいえ、それはクウ自身には全く関係ないという形で関係していて、それ以降は同じ救済を描くものではあっても、その救済の理念型が異なっているためです。「灰羽連盟とグノーシス」というタイトルではその分析装置の限界を超えて収まり切れない解釈が必要となるため、予め断り書きとして「建徳的物語としての『灰羽連盟』」とタイトルを変更させていただくことをお許しいただきたかったためです。ところで、今回は恐らく人によっては「受取り直し」など、見慣れない概念がちりばめられているかと思いますが、それらもこの後続けていく解釈で詳細に触れながら書いていくつもりです。考慮してのことですので、わからなくなったとしても、とりあえずは読んで字のごとく読んでいただければと思います。それではお楽しみに。

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