建徳的物語としての『灰羽連盟』-鳥についての建徳的談話①-
(本ノートは、本文は無料で読むことができます。下部に「投げ銭チケット」がありますので、お気に召した折にはご購入頂ければ幸いです。なお、ご購入頂いた方には、少々の追記をご覧いただけます)
建徳的物語としての『灰羽連盟』-鳥についての建徳的談話①-
本ノートは「談話」ではあっても、「説教」ではない。なぜなら本ノートの執筆者には説教をする権能などないからである。また、本ノートは「建徳的談話」ではあっても、「建徳のための談話」ではない。なぜなら本ノートの執筆者は教師としての権能を持ちようもなく、教師であろうとなどはいささかも思わないからである。本ノートは現実的な事情では、一つの幻想のようなものであり、白昼夢に等しいものである。けれどもそれは信頼がないわけではなく、また目的を満たす希望がないわけでもない。本ノートが求めているのは、私が喜びと感謝を抱いている、私のノートを好意的に読んでくださる〈かの単独者〉、つまり、本ノートの内容を自分自身の心の中に現れてきたかのように受け取って、自分自身のために、ゆっくり読み、繰り返して読み、この小さな贈り物によって『灰羽連盟』という作品を拡充し、それに意義を与え、莫大なものに変えるという、まさにそのことを成してくれる〈かの好意的な人〉だけである。
祈 り
天に在ます父よ!人が人間との付き合いの中で、殊に人間=群衆の中で、知らしめられることの非常に困難なこと、そしてもし他の場所で知らしめられたとしても人間たちとの付き合いの中では、殊に人間=群衆の中では、ひどく容易に忘れられること――即ち、人間であるということがどういうことか、そして人間であるということの要件が敬虔な意味でどういうことか、我々はそれを学べればよいのだが、或いは、もしそれが忘れられているなら、我々がそれを百合と鳥から再び学べるとよいのだが。我々がそれを一挙にそしてすべてでなくとも、その若干を、そして少しづつ、学べればよいのだが。我々は今回は鳥と百合から、沈黙と服従と喜びを学べればよいのだが!(セーレン・キェルケゴール『野の百合と空の鳥』)
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人は二人の主に兼ね事ふること能はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を輕しむべければなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず。この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飮まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや。空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや。汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや。又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服裝この花の一つにも及かざりき。今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。さらば何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな。是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は、凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。まづ神の國と神の義とを求めよ、さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。(『マタイによる福音書』6章24-27節)
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Ⅰ:空の鳥を見よ-沈黙の教師としての空の鳥-
空の鳥を見よ。彼らを注意深く注目せよ。分裂した心や散乱した思考を以ってではなく、集中した注意力と熟考を以って、できれば驚嘆を以って、鳥に注意深く注目せねばならぬ。もし人が、鳥は大変屢々見られたし、それは何も珍しいことでもないとでも言おうものなら、その者は空の鳥について何も解っていないのだ。人が鳥に注目するとき、その鳥から何も学ばないで済むなどということはまず不可能である。しかし、人はもはや鳥から何も学べないようになっているのだろうか。おお、あの偉大なる技術、つまり、他を全く構わないで、自分自身にだけ心を配り、しかもそれを、人を覚醒させ、その心を捉え、その気に入り、費用の点では格段に安くて、それから何も学ばないなどということが不可能なくらいに心に触れてくる方法でやる、というあの偉大なる技術を、既に人は学べないようになっているのだろうか!
クウ「カナはカラスのことをゴミ漁りっていうんだよね。でも、私は、カラスは私たちと友だちになりたいんだと思う。私たちにはゴミでも、カラスにとっては食べ物なんだよね。だから、友だちになって分けてもらいたいんだと思う。私は灰羽で、言葉が喋れるから、カフェのおじさんと友だちになって角砂糖がもらえたよ。でもカラスはカーカーとしか言えないし、真っ黒で怖い顔してるから、クレープはもらえないし、カナに本気で追っかけられるんだ。なんか不公平。カラスと話ができたらいいのにね?」(『灰羽連盟』第三話「寺院・話師・パンケーキ」)
鳥と会話する。そのためにはむしろ、人間や灰羽が逆に空の鳥を教師として、沈黙或いは沈黙することを、畏れ戦くことを、学ばねばならぬ。確かに、人間や灰羽を鳥よりも擢んでさせるのは、言葉を話すことができるということである。しかし、そうであるからといって、それが人間や灰羽と鳥との間に不公平を生んでいるわけではない。鳥には鳥のやり方があるのだ。鳥は騒がしく鳴く。だが、人間や灰羽のように「言葉を話すことができる」という観点からすれば、鳥がどのように騒がしかろうとも、そこには沈黙がある。言葉を話すことができるということが長所であるからといって、沈黙することができるということが一つの術であるべきではないとか、或いはそれがつまらない術であるべきだということは出てこないし、ましてや鳥と人間が不公平であるということは出てこない。むしろ、まさしく人間や灰羽が言葉を話すことができる故に、沈黙できるということが一つの術であると考えてみよ。人間や灰羽の「言葉を話すことができる」という他の動物たちに対する長所は、人間や灰羽を非常に誘惑しやすい。神に対する関係においては、言葉を話そうとすることは、言葉を話すことができる人間や灰羽に対して容易に堕落になりやすいのである。人間や灰羽が鳥に対する長所として、言葉を話すことができるということは、逆に人間や灰羽の側がそうだからこそ、鳥と旨く話し合うことができないということでもある。鳥が言葉を話すことができないからというよりは、人間や灰羽が言葉を話すことができるからなのである。そしてそれ故にこそ沈黙し得るということが偉大なる術と言えるのだ。
福音書は言う、「汝らまづ神の國と神の義とを求めよ」と。これは、「私が成すべきことは或る意味において皆無だ」ということである。その「或る意味」とは次のような意味である、「私は最も深い意味で私自身を無に成し、神の前で無と成り、沈黙することを学ばねばならない」。沈黙とは、神の国と神の義とを求めるということの初めである。言い換えると、沈黙とは、自己認識において、また神の前で本来の自己へと立ち返り、神の前で無として、しかも無限的にして無制約的に、義務を負う者として本来の自己に立ち返ることの初めなのだ。沈黙のうちに初めがあるということが、「まづ」と言われていることの真意なのである。最も深い意味で沈黙するように成るということ、神の前に沈黙するように成るということ、それは「主を畏るることは智慧の根本なり 聖者(きよきもの)を知るは聡明(さとり)なり」(『箴言』9章10節)と言われるが如くに、畏神の初めである。畏神が智慧の初めより以上であり、智慧そのものである如く、沈黙は畏神の初めより以上であり、畏神そのものなのである。この沈黙のうちに、神を畏れつつ、願いと欲望の多くの思いは黙するのだ。カナが言っていた、「鳥は、自分たちが繭の中に入ったときに忘れてしまった何かを運ぶ」(『灰羽連盟』第四話「ゴミの日・時計塔・壁を越える鳥」)のだと。忘れてしまった何かとは本来の自己のことである。鳥から沈黙と畏れ戦きを学ぶことは、「人間或いは灰羽とは何か?」と問うこと、即ち「自己とは何か?」と問うことの「まづ」なのだ。人間や灰羽は精神(聖霊)であり、精神とは自己であり、そして自己とは、「『神と人』或いは『神と灰羽』の関係において、その関係がその関係自身に対して関係するというその動きのこと」である。クウが言ったこと、即ち鳥と灰羽とが上手く話し合うことができないというのは、鳥と灰羽及び鳥と人間との間に裂け目があるということであるが、神と灰羽及び神と人間との間においても同様の裂け目がある。ただし鳥に対して言葉が話せることは、長所と言い得る側面があるにはあるが、神に対しては、話そうとすることは、話すことのできる人間に対して容易に堕落になりやすい。神は全知であるが、それに対して人間が知っているのはぞんざいな饒舌でしかない。また、神は愛であるが、人間や灰羽はそれに対して小さい初心でしかない。だから両者はうまく話し合うことができないのである。ただ多くの畏れ戦きの内にのみ、人間や灰羽は神及び自分自身と話すことができる。多くの畏れ戦きは、話が沈黙の内に黙するようにする。鳥自身にとっては沈黙は術ではないが、もし人や灰羽が鳥のように沈黙するようになるのなら、その時に人や灰羽は「初め」にいるのである。
さて、それでは人間や灰羽が沈黙と畏れ戦きとを教わるべき鳥を、もっと詳しく見てみることにしよう。全てのことには時があるとソロモンは言う。「天が下の万の事には期あり 万の事務(わざ)には時あり」(『伝道之書』3章1節)。鳥は沈黙し、そして待つ。即ち、鳥は、全てのことが、その頃良い時に起こるということ、即ち機縁を知っている、或いは、むしろ十全に固く信じている。なぜなら神が機縁として働くことを、鳥は知っており、また固く信じているからである。それ故に鳥は待つ。だが鳥は、万事が起こる頃良い「時」または「期」を知ることが鳥には相応しくないということを知っている。「時または期は父おのれの権威の内に起き給へば、汝らの知るべきにあらず」(『使徒行伝』1章7節)。だから鳥は沈黙するのである。万事の起こりは必ずや頃良い時に起こるということを、鳥は示す。しかし鳥はそれを「言わない」。ただ沈黙を持ってのみそれを示す。鳥のこの沈黙の言うところは、鳥はそれを信じ、そして鳥がそれを信ずるが故に、それ故に鳥は沈黙しそして待つ、ということである。かくして、その「時」または「期」の瞬間が来た場合には、沈黙した鳥は、それがその「瞬間」であるということを理解し、それに即した行動を起こす。そのようにして、鳥自身もまた、神が機縁として働くことの担い手となる。或る一人の灰羽が巣立ちの日を迎えた時、鳥はそれをオールドホームの灰羽たちに知らせるかのような行動を起こした。おお、そこにはなんという沈黙と畏れ戦きのあることか!然り、鳥は真実を以て次のことを示した、即ち、「生るるに時あり 死ぬるに時あり」(『伝道之書』3章2節)と。
灰羽たちのなかで、その巣立ちの時の瞬間を目撃したラッカは、鳥の示したことに沈黙と畏れ戦きをもって相対した。彼女にはその不気味なこと(独:Unheimlichkeit)が言葉にならない。それをなんとかして言い表そうとしても、他の灰羽たちになかなか正しく伝わらない。全て神が機縁として働くことはこのようであり、その担い手となっている鳥の示すこともまた沈黙と畏れ戦きをもってしか相対できないのである。言葉を話すことによっては「瞬間」に出会うことができない。沈黙することによってのみ「瞬間」に出会うことができるのである。人や灰羽が話すことによっては、ただの一言を言ってさえ、人や灰羽は瞬間を取り逃してしまうのだ。現に、他の灰羽たちは、クウの巣立ちの「瞬間」に出くわすことはなく、見ることができたのはクウが巣立った後の光輪の残骸だけであった。
重ねて述べておこう。野外の鳥のもとに沈黙があること、それが表現するのは、成敗を定めるのは神であり、しかも、智慧と理解力は神のみに帰するという、神に対する畏敬なのである。そしてこの沈黙は、神に対する畏怖である。全てのものが神に対する畏敬から沈黙する時、実際何と驚くべきことであろうか!たとえ彼が語らなくても、全てのものが神に対する畏敬から沈黙するということは、実際彼が語っているかのように人や灰羽に作用するのである。人間や灰羽は野外の鳥のもとで、神の前にある。このことが真剣なことであらねばならない。鳥は、人間や灰羽が神の前にあるということを思い出させ、本当に真剣かつ真実に神の前に沈黙するように成らねばならないということを表明しようとするのである。
おお、人間や灰羽が、そして私たちにおいても、鳥の助けによって、神の前に全く沈黙するようにする真剣さを知ることができればよいのだが。私たちが沈黙のうちに、仮初の自分を忘れ、私たちが呼ばれてきた取るに足らぬ仮初の名を忘れ、忘却された本来の自己を知り、真の名を知り、神に対して「汝の意志よ成れ!」と祈ることができるようになればよいのだが!然り、だからこそ鳥の如く成れ、「まづ」神の國と神の義とを求めよと言われるのだ。そうすれば、他のことは私たちに授けられるであろう。「されば我が愛する者よ、汝ら常に服ひし如く、我が居る時のみならず、我が居らぬ今もますます服ひ、畏れ戦きて己が救いを全うせよ。神は御意を成さんために汝らの衷(うち)にはたらき、汝らをして志望をたて、業を行はしめ給へばなり。汝ら呟かず、疑わずして凡てのことを行へ!」(『ピリピ書』2章12-14節)。
(以下は追記です。内容それ自体の続きは別稿に記したいと思います。本ノートをご購入いただいた方には、本ノートの内容の少しばかりのネタばらしをご用意しております)
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