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ペットロス~ふたたび、大好きなあのコたちの笑顔に出逢えるために vol.3

*目の前の世界が「私」ごと消えた日*


アミには7歳ころから心臓の持病がありました。

「僧帽弁閉鎖不全症」

幸いにも、掛かりつけの動物病院には、循環器専門の先生がいらっしゃいました。
アミに心臓の不調が見つかってからは、それまで主治医だった院長先生から、専門の先生にバトンタッチ。
「じっくりとケアしながらがんばりましょう!!」という心強い言葉と共に、私も決して悲観的になることなく、むしろより一層、アミを守りたい気持ちが強まっていました。

それからというもの、投薬も出来る限りアミの身体の負担にならぬよう必要最低限を先生と相談しながら進め、手作りの食事もこれまで以上に自分なりに勉強したり、ハーブやマッサージ、ほか身体に良さそうなものなども取り入れたり、その一方で“お楽しみ”も製作の合間をぬって、、そんな毎日を過ごしていました。

***

2016年6月夏至前、アミ14歳の初夏、大阪での出展用の荷物を送り出した次の日の朝、アミが突然倒れました。(もちろん、その数ヶ月前から調子に波があったのですが、、)

普段ならアミとリラを静岡県の実家に預けて大阪へ向かうところを、アミだけ病院に残したまま、後髪を引かれる思いで私は出掛けることになりました。

今でも忘れられないのですが、、

荷物を送りだす前の日、夜中遅くまで準備をしていたら、斜め後ろに視線を感じて振り返ると、アミがいつものようにじーっと見つめていました。

「やだ、アミ、そのままサヨナラしないでよね。」

何気に出たことばでした。

それから1ヶ月半、奇跡を何度も何度も起こしてくれながらも、8月5日の早朝、実家にて父、母、そして私それぞれの目を順番に見つめた後、アミは静かに息を引き取りました。

***

リラは、同じ年の春頃から、ちょっと痩せ気味で、股関節にも不調が出ていました。
アミが居なくなったことを理解しているのかいないのか、、相変わらずの無邪気な笑顔が、アミを失ってしまった私たち家族の唯一の癒しでした。

アミの具合に波が出始めてからは、リラを十分に構ってあげることが少なくなっていました。そのためか、アミへの焼きもちは凄まじかったな、、。(もともとツンデレの性格ですし、、笑)

アミがいなくなってからは、「これからママの分も仲良く暮らしていこうね」とよく語りかけていました。

まずは、股関節と、原因不明の“ヤセ”の治療から!
アミを、最期、嫌がるところを無理矢理お薬漬けにしてしまった強烈な罪悪感と後悔から、リラは自然療法を重点的に行うことにしました。

***

そして、アミを看取ってから、わずか4ヶ月後の夜

2016年12月3日0時を少し回ったころ、私の腕の中でリラはあっけなくアミのところへ逝ってしまいました。

それより2時間ほど前から、リラの息遣いが急に荒くなり始め、これはおかしいと、掛かりつけの先生に何度電話をするも、一向に連絡が取れない、、、。「大丈夫!大丈夫!」と自分に言い聞かせながら、2時間ほど出来うるかぎりのことをしました。

でも、、

その甲斐なく、精いっぱいの力でお水を飲もうとしたリラを抱きかかえた直後、私の腕の中で力無くうなだれてしまった、、それが最期でした。

突然過ぎて何が起こったかも分からず、しばらくの間茫然としていました。

その時「感情」というものが全て、私の中から無くなっていたのです。
(これをショック状態というのでしょうか、、、)

1日、2日、、と少しずつ時間が経つにつれ、これまでの私の生活すべてがあのコたちの視点で成り立っていたことに気が付きました。

つまり、

私の「日常」は“自分仕様の食・住・楽しみ・仕事・その他いろいろ”ではなく“あのコたち仕様の食・住・楽しみ・仕事・その他いろいろ”だったのです。

その為、もはや何をしていいのかすら、わからなくなっていました。

まさに、目の前の世界が「私」ごと消えてしまったのでした。

***

実はちょうどその頃、引っ越し先も決めていて、アミ亡き後リラと一緒に、東京⇔静岡県の2拠点生活を始めようとしていたところでした。

だからもちろんペット可の物件。
それが私だけになってしまったのです。

とりあえず2週間という超短期間で、15年分の大量の荷物を、東京と静岡県それぞれに振り分けて、引っ越しを済ませました。

記憶に殆んどありませんが、おそらくその間、淡々と機械のようにひたすら動いていたと思います。

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そして、2017年1月、ひとりでの2拠点生活が始まりました。

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