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音声によるSNSのこと、考えてみた
最近、音声配信をはじめてみた。
そして、時同じくして瞬く間に日本でもその名が広まったのは、Clubhouse。
これからは、やはり動画よりも”音声”の時代だろうか。
そんな話もチラホラ耳に入る今日この頃である。
斯くいう私も、ずいぶん長いこと、音声配信の一視聴者である。
”ながら”にはもってこいだからだ。
だが、それとはまた違う目線で、これからの「音声の時代」について考えてみた。
***
初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
(ヨハネによる福音書1.1)
これは新約聖書の「ヨハネによる福音書」の冒頭部分であるが、読み進めると言(ことば)はイエスキリストを指していることがわかる。
ただ、「言は人となって、私たちの間に住まわれた(ヨハネ1.14)」とあるのだから、その大元はやはり個体を越えたものであることは間違いない。(個体を越えた大元の象徴がイエスキリスト、なのであるが)
ではなぜ、言(ことば)と表現されているのか。
それは”言”=”音”すなわち”波”ではないだろうか。
結局、この世のすべては波(波長)
そんなことを聴いたことがある人もいるかもしれない。
イエスキリストも私たち人間も”波”の現れである。
そしてイエスキリストや私たちが発する言葉もまた”音”すなわち”波”である。
波は目に見えないし、通り抜けることもできる。
シンクロして、増幅することもできる。
さて、昨今流行り出した音声SNS。
これらもまさに波の饗宴である。
肩書だの、ステータスだの、各々のアイコンを越え、全く関係ない者同士の色々な波が創り上げる交響曲が、これからあちらこちらで出来上がる、という、これまでにない世界が繰り広げられるのは想像に容易い。
とはいえ、SNSにそこまでのめり込めない私は、おそらくClubhouseに限っては無縁な気もするけれど、、。
それよりも私自身は、最近、眼もお疲れ気味なお年頃であるため、波の饗宴より、眼の健康のため必要に迫られて?!ゆえの配信でもあることは、ここだけのお話。