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回想
叔父は母より3歳上で、かつては会社役員や社長までした人だった。
今は奥さんにも先立たれ1人で穏やかに暮らしている。
ボケてきてる、と聞いていたけど
私が電話すると、ハッキリしていたし
私のこともわかっていた。
家につき、インターホンを鳴らした時も、
すぐに私の名前を呼んで入れてくれた。
おもむろに私は戸籍を出す。
「おじいさんの戸籍もらってきたよーーー」
興味津々で見入る叔父。
「もしかしたら、知らん名前の子供おるかと思ったけど、それはなかった😆」
「そうか?笑」
祖父は写真で見た通りの色男。
女関係もなかなか派手だったと聞いていた。
だから戸籍に私の知らない叔父とか叔母がいるかも、と思っていたのだ。
「隠し子はおらんかってんけどさーー…おばあちゃんと離婚してたで」
「ええっーーー!」
叔父も知らなかったようだ。
「まぁ…おばあさん、なかなか激しい人やったからな😅」
おばあちゃんの意思かはわからないけど、何かしら当時の事情があったんだろうな。
そこから、叔父に祖父についての質問をしていく。
「おじいちゃんは日本語、カタコトやった?」
「いや〜普通に流暢に喋ってたで。」
当時、ちゃんとした日本語を話せたということは、ちゃんと教育を受けたということであり、それなりの家庭だったということでもある。
ここから、叔父に聞いた話をまとめると、
祖父は祖母の実家の書生さんだった。
家で働く祖父に祖母が惚れ込んだのだろう。
2人は家を出る。
もちろん反対もあっただろう。
祖母はその家では、お転婆娘だった。
親のいうことなんて聞かない、そんな娘だったのだ。
反対されていたものの、
祖父が事業に成功した時には祖母の父、つまり私の曽祖父は家まで訪ねてきたらしい。
この時、認めたということだろう。
なので、叔父は祖母の実家にもよく行ったと言っていた。
「韓国にも行ったことがある」と叔父が言った。
どこから、どうやって行ったのか
記憶はあまりないけど、駅まで馬車で迎えが来ていて
「日本人の嫁を連れてきた!」と村では大歓迎されたらしい。
牧場をやってたのか、牛がたくさんいた。
兄弟が多いのか、家族も多かった。
この話を前にも聞いたことがあったので、私は祖父は兄弟が多い末子だと思っていた。
しかし、戸籍では2人兄弟。
叔父が兄弟、家族と思ったのは村の人や親戚だったのかもしれない。
韓国へ行った記憶は、祖母の実家に行った記憶と混ざり、時々話していても混乱していた。
祖父の天性の営業力はこの叔父が受け継いでいた。
そして、実はそれを私が受け継いでいたりする。
祖父は当時大阪市内でヨコハマタイヤの代理店をして
かなり大きなお店を構えて、従業員もたくさんいたらしい。
祖父は優しい人で、
戦争孤児を連れて帰ってきては、風呂に入れてご飯を食べさせていた。
祖母は文句を言いながらも、祖父が連れてくる子供たちの面倒を見ていたらしい。
いつも家には知らない人が来ては
ご飯を食べていた。
祖父は「とにかく優しい人だった」と叔父は言った。
でもお酒が好きだった。
お酒に負けた。
お酒のせいで、どんどん商売も、うまくいかなくなる。
叔父は、
「いつも、酒買ってこいて言われてな〜酒屋に瓶持っていったら、店のおばさんが、『また来たんか〜』てお酒入れてくれたわ」
そんな祖父がお酒でカラダを壊して亡くなると
友達の保証人になっていた借金とりが来て
お葬式の翌日には家を追い出されたらしい。
叔父の兄、母の長兄は
それまで私学の中学校へ行っていたが、当然それもやめて近くの学校へ。
母はよく、「学校へ行けなくて勉強はきーちゃん(長兄)に教えてもらったわ」と言っていた。
叔父は、毎日のように警察に職務質問を受けては
外国人登録証を持っていないと、連れて行かれて
毎日のように韓国の住所を書かされた。だから覚えてるねん」
叔父がそらで言えるその住所は戸籍に載っているその住所だった。
祖父が生きている間は、裕福な生活もしたが、亡くなったその日からどん底に落ちた生活。
葬儀の翌日から従業員だった祖父の友達の家に間借りさせてもらい、
貧しい生活が始まる。
「すごく優しい人」だったこと、
韓国に帰ったときに歓迎されたこと、そんなちょっと嬉しい情報はあったものの
その後の母や叔父たちの壮絶な生活は、隠したかったことも認める、と思えるほどのものだった。