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僕の好きなクリエータ058-緒方光琳

琳派というスタイル

琳派といえば俵屋宗達が有名だろうが、僕は尾形光琳(1658年 - 1716年)の方がすごいと思ってしまう。何がそう思わせるかを話してみたい。

琳派とは何かという定義があるのかと言えば 調べてもよくわからない。特別にこれが琳派だという話は無さそうだ。強いていえば もともと日本の絵画には遠近法は使わない。

浮世絵然り、琳派然り、物事や世界をモチーフにしたとき、全て同じ力で表現しようとしているような気がする。近いもの 遠くにあるものを表現しない 描かれているもの全てを等価で表現する。だから、抽象的なのだ。 その中でも琳派の緒方光琳といえば現代グラフィックデザインに最も近いのではないかと思う。

緒方光琳の凄さ

僕は緒方光琳といえば幕末や江戸末期の頃の画家だと思っていた。というのは、作風がそれほど古いとはどうしても思えなかったからだ

他の日本画家と比べてみても、緒方光琳は相当古い。 例えば葛飾北斎、写楽と比べても、緒方光琳は現代グラフィックのような感覚で、どこか西洋臭いのである。年代別に並べてみよう。 

尾形光琳(1658年 - 1716年)  葛飾北斎1760年10月31日  写楽1794年 - 1795年 となる。

ある意味 葛飾北斎や 写楽よりもよっぽど現代グラフィックに近いものがあり、西洋臭い。それはなぜだろう? もっと新しい現代絵画のクリムトや、アンディウオーホルが琳派の影響を受けているからだ。

つまり、僕は緒方光琳が西洋の影響を受けていたと思っていた。でもずっとずっと古い画家だったのだ。すると、西洋に影響を与えていた方なのだ。
それに気がついたときに 凄いと思ったわけだ。

「紅白梅図屏風」の恐ろしさ

緒方光琳といえば「紅白梅図屏風」が有名だ。たしか、国宝だったとおもう。僕にとって、この絵画は素晴らしいというよりも、なんて怖い絵だろうかと思う。

まるで枯れない梅、永遠の枯れない川。黄泉の世界。三途の川に見える。死んだらお前がいく世界はこんな感じだと言わんばかりに迫ってくる それが恐ろしい。

紅白の梅というけれど、金箔一面に貼られた屏風の上に黒いスミでの濃淡だけで描かれている。花だけに色がついている。川の流れも水の流れとは到底思えない。

まるで魂がぐるぐると動いているような気がしてならない。この恐ろしさはどこから来るのか。「綺麗な絵ですね」ではすまない呪いが感じられてしまう。

手塚治虫の火の鳥に出てくる話

例えば手塚治虫の火の鳥にこんなエピソードがあった。
ある少年は自動車事故で身体のほとんどと、脳の半分を損傷して機械に置き換えられる。それを境に少年の脳は生物をゴミのようにしか見えなくなる。

人間も花もただの汚らしいゴミにしか見えない。視覚だけでなく、人の声も金属を擦り付けたようにしか聞こえない。

ある日、少年は美しい少女に出会う。その子に恋をして、デートをする。デートの場所は美しい川の辺りで、鳥の声がする場所だった。二人はその場所で語り合い、お互いに恋に落ちる。

なぜ、生きた人間がゴミに見えるのに その少女は特別に美しく見えたのか?彼女はロボットだったのだ。その姿は金属丸出しの四角い顔に丸い目がついているだけの昆虫のような顔をしたロボットだった いつもデートをしている美しい川は、溶鉱炉を眺めていただけだったのだ。

黄泉の国だからこその永遠

そういう風景、現実には無いが、生きている梅や、実際に水が流れている川ではない世界 腐らない世界。

永遠の恐ろしさ。 それが緒方光琳が描いた風景のように思えるからなのだ。




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