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【古代オリエント3】 シュメールとアッカド

●世界史シリーズ Sec.3

1) メソポタミアの地域区分

 「メソポタミア」は,ギリシア語で「川の間の土地」を意味します。北のティグリス川と南のユーフラテス川の流域を指し,現在のイラクからシリア北東部にいたる地域です。

 メソポタミアは,バグダード周辺を境に南北に分けられ,北部を「アッシリア」,南部を「バビロニア」と呼びます。

 アッシリアはギリシア語で「アッシュルの地」を意味し,バビロニアは「バビロンの地」を意味します。
 「アッシュル」はアッシリア(王国)の中心都市の名であり,神の名でもあります。また,「バビロン」はバビロン第1王朝などの首都の名でした。

 バビロニアはさらに南北に分けられ,その北部を「アッカド」,南部を「シュメール」と呼びます。そのため,歴代のバビロニアの支配者は「シュメール・アッカドの王」を名乗りました。

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2) 農耕・交易の発展→職業分化

 メソポタミア南部(バビロニア)は,ティグリス川とユーフラテス川が運ぶ泥土が堆積した沖積平野で,もともと肥沃な土壌が広がっていました。

 2本の大河は,メソポタミア南部では天井川になっており,たびたび氾濫しました。沼地の多い低湿地が広がり,そのままでは耕作地にできませんでした。

 そこで,沼地に水路を作って排水し,その水で乾燥した土地に灌漑用水を引くことで,耕作地を拓いていったのです。

 こうして,メソポタミア南部では灌漑農業が発達し,麦作を中心として農業生産が増大しました。やがて人口が増え,大きな集落が生まれます。

 集落は河川の氾濫を避けるため,やや高台になった土地に営まれ,その中心には神をまつる神殿が築かれ,人々の心のよりどころになりました。

 一方で,余剰生産物が増えると,集落の中に,食糧生産に直接従事しないさまざまな職業や階級の人々が増えていきます。

 メソポタミア南部は沖積平野のため,鉱物や石材は採れず,乾燥した気候で,木材を産出する森林もありません。それらを入手するためには,遠方との交易が必要でした。

 そのため,交易を専門に行う商人や,輸入した原材料を加工する職人が現れました。

 また,遠方からもたらされる貴重な物資は神殿に集められ管理されました。祭祀を司る神官の権威はより高まり,指導者として,生産と交易をコントロールするようになっていきます。

3) シュメールの都市国家

 大きな集落には周辺から人々が集まり,やがて都市に発展します。都市では,神官や都市を防衛する戦士などが富を蓄えて支配層となり,階級分化が進みました。

 豊かな都市は周辺集落を支配して勢力を強め,やがて都市国家に発展しました。メソポタミア最南部のシュメールでは,前3100〜前2900年頃,ウルウルクラガシュなどの都市国家が成立しました。

 都市国家は互いに覇権を競い,領土や交易路などをめぐって戦争が絶えませんでした。都市は城壁で囲まれるようになり,周辺村落の人々は,安全を求めて城壁内に移住しました。

 都市国家の中心にはジッグラト(聖塔)が築かれ,都市の守護神がまつられました。そして,王が神の名の下に統治する神権政治が行われました。

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[写真]ウルのジッグラト(聖塔)
 ウルの中心部にあったジッグラトで,前21世紀,ウル第3王朝の時代に,月の神をまつる神殿として最初に築かれました。その後,新バビロニア時代(前6世紀)に再構築されています。
 19世紀以降に遺跡の発掘が進み,修復されました。日干しれんがを積み上げてつくられ,基底部は64m×46mあります。上部は失われており高さは不明ですが,30m程度あったと推測されています。

4) シュメールに始まるメソポタミア文明

●粘土板記録 〜文字の発明〜
 前3300〜前3100年頃,シュメール南部のウルクで,粘土板に絵文字を刻んで記録するシステムが発明されました。
 記録のほとんどは,家畜や奴隷,交易品の数,穀物の量,土地の面積などを記録した会計簿で,そういった記録や物品管理の必要性から文字が生まれたと考えられています。
 原初的な絵文字は,前2500年頃には抽象的な楔形文字に変わり,600語程度の文字でシュメール語を表記できるようになりました。
 この楔形文字による粘土板記録は,シュメールに始まって,セム語系(アッカド語,アッシリア語など)やインド=ヨーロッパ語系(ヒッタイト語,ペルシア語など)の民族にも使われるようになります。

<一口メモ> 印章
 文字が発明された時代には,粘土板に押印する印章(円筒印章)も普及しました。円筒印章は,石などで作った円筒の表面に,図や絵文字などを彫って凹版とし,粘土板に転がして立体的な印影をつくります。物品の持ち主を示したり,手紙や文書の署名として用いられました。

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[写真]円筒印章(前23〜22世紀/アッカド時代)
写真左が印章,右が粘土に転がした印影。狩猟の場面を表現している。(ニューヨーク・メトロポリタン美術館蔵)

●青銅器の使用
 
シュメールで都市国家が形成された時代は,青銅器が普及した時代(青銅器時代の前期)と重なります。青銅は銅とすずの合金で,その生産には,交易による鉱物資源の入手と高度な冶金技術が必要でした。
 最初は武器や斧などの道具として使われましたが,後には,細かな装飾品などにも使われるようになりました。

暦法/記数法
 シュメール人は,天体観測から暦を編み出しました。最初は月の満ち欠けの周期を利用した太陰暦でした。
 しかし,太陰暦では1年が実際より11日短くなり,暦と季節がずれてしまいました。そこで,閏月を加えて補正した太陰太陽暦がつくられました。紀元前2000年頃のバビロニアでは,この太陰太陽暦が使われていました。
 一方で,シュメール人は,数を表現するのに六十進法を用いていました。これは時間や方位を表現するのに用いられました(ちなみに,アッカド人は十進法を用いていたとされます)。

5) アッカド王国の支配

 前2900〜前24世紀中頃にかけてのメソポタミアは,初期王朝時代と呼ばれ,シュメールの都市国家が分立して覇権争いを繰り広げていました。

 前24世紀中頃,ウルクを本拠地とする王が,シュメールを統一しました。しかし,間もなくアッカド地方を統一したサルゴン王がウルク王を破り,シュメールを征服します。

 アッカド人セム語系の民族で,シュメール人とは民族系統が異なります(シュメール人の民族系統は不明)。アッカド王国は「シュメール・アッカドの地」を支配した最初の統一国家でした。

 サルゴン王の孫(ナラム=シン王)の時代,アッカド王国は最盛期を迎えます。東はイラン高原西部のエラム,西はシリア北部の諸都市を征服して,地中海に達し,アナトリアにまで遠征して領土を広げました。

 強勢を誇ったアッカド王国ですが,ナラム=シンの死後,急速に衰退していきます。

 ザグロス山脈からグティ人,東方からエラム人,西方からアムル人など異民族が侵入し,さらに,足元ではシュメールの都市が反旗を翻すなど無政府状態になりました。

 アッカド王国は,サルゴンから数えて11代の王が即位し,約180年ほど続きましたが,前22世紀には滅亡しました。

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デジタル解説▶︎ シュメールとアッカド

<一口メモ> オリエント史に登場するセム語族
●アッカド人:サルゴン王がシュメールを征服,アッカド王国
●アッシリア人:メソポタミア北部,前8世紀にオリエントを統一
●アムル人:シリア方面からバビロニアに進出,バビロン第1王朝
●アラム人:シリアに都市国家,ダマスクス中心に内陸交易
●フェニキア人:地中海東岸に都市国家,地中海交易→カルタゴ等の植民市
●ヘブライ人:パレスチナ定住,イスラエル王国・ユダ王国,ユダヤ教
●アラブ人:アラビア半島で遊牧・オアシス農業や隊商,イスラーム帝国

6) ウル第3王朝 〜シュメール王朝再興〜

 アッカド王国の滅亡後,メソポタミア南部は異民族(グティ人)に支配され混乱しましたが,前22世紀後半,ウルクの王が異民族を打倒し,シュメールを解放しました。

 その後,前2112年,ウルの王(ウル=ナンム)がメソポタミアを統一し,シュメール人による王朝を立てました。5代・約100年続いたこの王朝を,ウル第3王朝と呼びます。

 この王朝では,世界最古の法典として,シュメール語の「ウル=ナンム法典」がつくられました。また,第2代シュルギ王の時代には,地中海沿岸からペルシア湾岸にいたる広大な領域を支配したとされます。

 シュルギ王の死後,東方のエラム人や西方のアムル人の侵入に脅かされ,さらに飢饉などもあってウル王家は弱体化します。前2004年,侵攻してきたエラム人によって王が連れ去られ,ウル第3王朝は滅びました。

 これをもって,シュメール人は歴史の表舞台から姿を消します。

《参考文献》
青柳正規著『人類文明の黎明と暮れ方』(興亡の世界史00) 講談社 2009
アンドルー・ロビンソン著,片山陽子訳『図説 文字の起源と歴史』 創元社 2006
大貫良夫他著『人類の起源と古代オリエント』(世界の歴史1) 中央公論社 1998
小泉龍人「都市論再考-古代西アジアの都市化議論を検証する-」『ラーフィダーン 第34巻』 国士舘大学イラク古代文化研究所 2013
小林登志子著『古代メソポタミア全史』(中公新書) 中央公論新社 2020

★次回「古代オリエント4 バビロニアの王朝」へつづく