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【古代オリエント4】 バビロニアの王朝

●世界史シリーズ Sec.4

1) アムル人侵入→群雄割拠のメソポタミア

 ウル第3王朝の滅亡(前2004)後,シリア砂漠周辺の遊牧民だったセム語系アムル人がメソポタミアに定住し,勢力を伸ばしました。

 メソポタミアの諸都市では,アムル人が次々と支配権を奪って王朝を起こし,のちにバビロンのハンムラビ王に統一されるまで,多くの王朝が割拠する混乱期に入りました。

 南部のバビロニアでは,前2000年紀(前2000〜前1001年)の初め,アムル系の王朝とされるイシンとラルサが覇権を争っていました(イシンをアムル系とすることには異説あり)。

 さらに,前19世紀初め,アムル系のバビロン第1王朝(古バビロニア王国)が,都市バビロンを拠点に成立します。

 前18世紀初めには,ラルサがイシンを征服し,シュメール全土を支配下に収めました。同じ頃,バビロン第1王朝ではハンムラビ王が即位し,ラルサと領土をめぐって対立を深めていきます。

 一方,北部のアッシリアでは,アムル人の族長シャムシ=アダド1世が,ティグリス川中流域のアッシュルを征服して広大な王国を築き,ユーフラテス河畔にある都市国家マリ(アムル系)と攻防を繰り返しました。 

アセット 52

[地図]前2000年紀初期のおもな都市(王朝)
 ラルサやバビロンの王朝はアムル人によって創建されました。北部のアッシュルやマリはアムル人が先住者から支配権を奪ったとされます。
 イシンについては,創設者がアムル系だったとする説のほか,ウル第3王朝の後継王朝とする説があります。
 イラン方面のスサは古くからエラムの根拠地でした。エラムはこの時代,シュメール・アッカドの王朝と抗争を繰り返していました。

2) ハンムラビ事績(1) 〜メソポタミアの統一〜

 前18世紀の初め,バビロン第1王朝では,第6代ハンムラビ王が即位します。その頃のバビロンは,ラルサ,マリ,エシュヌンナ,アッシュル(アッシリア)などの列強に囲まれた一勢力に過ぎませんでした。

 ハンムラビの治世は43年に及びますが,当初はアッシリアのシャムシ=アダド1世に「臣下の礼」をとっていたとされます。そして,ハンムラビの治世17年目にシャムシ=アダド1世が亡くなり,ようやくアッシリアの宗主権から解放されました。

 ハンムラビは,その治世29年,スサからバビロンに侵攻しようとしたエラムを,マリと同盟を結んで退けます。さらに,エラムに従っていたエシュヌンナやアッシリアの諸勢力も平定しました。

 その後,数年のうちに,宿敵ラルサを破り,同盟国だったマリまで攻め滅ぼして,メソポタミア全土の統一を完成したのです(前1759年頃)。

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[地図]バビロン第1王朝の最大領域とその周辺
 
図中のバビロン第1王朝は,ハンムラビ王の治世(前1792〜前1750頃)における最大領域です。この頃,エジプトでは中王国時代が終わり(前1786頃),統一王朝のない中間期に入っていました。
 そして,ハンムラビの死から100年ほど経った頃には,エジプト北部はアジア系の異民族ヒクソスの支配下に置かれ,アナトリアではヒッタイトが勢力を伸ばしていました。

3) ハンムラビ事績(2) 〜大運河の建設〜

 乾燥帯で降水量の少ないバビロニアでは,灌漑施設が整備されていなければ農耕はできません。

 ところが,洪水によってたびたび河川の流路が変わる上,繰り返される戦争で運河や灌漑施設が壊されるなどして耕作ができなくなり,住民が土地を捨てて離散してしまうことがありました。

 バビロニアの支配者にとって,定期的に治水工事を行い,耕作地を維持することは,国を治める上で重要な事業だったのです。

 ハンムラビ王による運河工事の記録はいくつか発見されていますが,特に治世33年の運河の大工事については記念の王碑文が残っています。

 そこには,シュメール・アッカド全土に豊かな水をもたらす運河を掘り,散り散りになっていた人々を集め,牧草地や耕作地を提供したことなどが記されています。

4) ハンムラビ事績(3) 〜法典の発布〜

 古来メソポタミアでは,社会の秩序を維持し,弱者を保護することは,王が神々から託された使命とされ,「社会正義」の確立と維持は王の責務と考えられていました。

 この理念を具体化したのが,王による法典の発布でした。ウル第3王朝の「ウル=ナンム法典」に始まり,イシン王朝の「リピト=イシュタル法典」「エシュヌンナ法典」と続き,ハンムラビ法典に受け継がれます。

 ハンムラビ法典の前文では,神々がハンムラビを召し使わしたのは「国土に正義をあらわすため,悪しき者を滅ぼし,強者が弱者を虐げることのないため」として,社会正義の確立と維持をうたっています。

 ハンムラビ法典の条文は282条からなり,広く社会一般の争い事の解決に模範を示しました。

 特に現在の「刑法」にあたる内容に特徴があり,「目には目を,歯には歯を」と例えられる復讐法(同害復讐)の原則がとられました。

 但し,この同害復讐は,被害者と加害者がともに自由人の場合に限られていました。

 自由人のほかに,奴隷と半自由人(国家所有の隷属民)があり,身分差別がありました。下に抜粋したように,被害者が奴隷や半自由人の場合には,金銭による賠償とされたのです。

ハンムラビ法典(同害復讐条文の意訳)
196条 もし自由人が他の自由人の目を損なったならば,彼らは彼の目を損なわなければならない。
197条 もし自由人が自由人の骨を折ったならば,彼らは彼の骨を折らねばならない。
198条 もし彼(自由人)が半自由人の目を損なったか,半自由人の骨を折ったならば,彼は銀一マナを払わなければならない。
199条 もし彼(自由人)が他人の奴隷の目を損なったか,その奴隷の骨を折ったならば,彼は奴隷の値段の半分を払わなければならない。
(参考文献:小林登志子著『古代メソポタミア全史』(中公新書) 中央公論社 2020年)

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[写真]イラクの紙幣にデザインされたハンムラビ法典碑
 イラクの25000ディナール紙幣(2010年発行)には,ハンムラビ法典碑の上部の浮き彫りがデザインされています。
 浮き彫りでは,右に「正義」を司る太陽神が玉座に座り,左のハンムラビに,王の権威を示す腕輪と杖を渡そうとしています(他にも諸説あり)。
 この碑は,20世紀の初頭,イラン西南部のスサで発見されました。前12世紀にエラム軍がバビロニアの王朝(カッシート)を滅ぼした際に,バビロニアの神殿から戦利品としてスサに持ち去ったものとされています。

5) バビロニアの王朝交代

 ハンムラビ王は前1750年頃亡くなり,その息子が第7代の王位につきます。以降,バビロン第1王朝は次第に衰退へと向かいます。

 第7代王の時代,シュメール地方などでたびたび反乱が起こり,また,ペルシア湾岸の湿地帯では「海の国」と呼ばれる一派が王朝(海の国第1王朝)を起こして独立しました。

 また,この時代,既にカッシート人がメソポタミア北部へ侵攻してきたとする記録が見られます。

 ハンムラビ王の死から150年以上,弱体化しつつも,何とかバビロンの王朝は継承されていました。

 しかし,前1595年,突如としてアナトリアから遠征してきたヒッタイト王国によってバビロンが占領され,ついにバビロン第1王朝は滅びます。

 ヒッタイトがバビロニアで覇権を握ることなく帰ってしまったため,前16世紀のバビロニアでは,一時,統一王朝のない空白期がありました。

 その後,前1500年頃,バビロニアで最も勢力を伸ばしていたのは,ザグロス山脈方面から侵入してきたカッシート人でした。

 カッシートは,最南部の海の国第1王朝を制圧し,バビロニアに統一王朝を築きました。その後,およそ350年にわたって,カッシート王朝がバビロニアを支配することになります。

▶︎デジタル解説: バビロニアの王朝

《参考文献》
大貫良夫他著『人類の起源と古代オリエント』(世界の歴史1) 中央公論社 1998
小林登志子著『古代メソポタミア全史』(中公新書) 中央公論新社 2020
中田一郎著『ハンムラビ王 法典の制定者』(世界史リブレット人01) 山川出版社 2014
前田徹他著『歴史学の現在 古代オリエント』山川出版社 2000

★次回「古代オリエント5 諸王国の興亡」へつづく