主体的に受動的になる
「このことについて、意見はありますか?」
「この中で、どれが良いと思いますか?」
学校に限らず、よく問われることです。
こう思ったことはありませんか?
『いや、意見なんてないよ・・・。』
でも、問われているから何となく意見らしきものを選ぶという経験を私たちは少なからずしてきているはずです。
それは本当に主体的なことなのでしょうか。
一日24時間、いったいどれくらいのあいだ人は主体的でいるのかと考えました。
すると、わりと受動的な時間が多くあることに気付きます。
全てに主体的でいるのは大変です。
一部を受動化して「おまかせモード」にすることは、生活するうえで必要なことではないでしょうか。
その受動化したことに気付いている、もしくは気付く作業が大事と考えます。また、「どこを受動化して、どこを主体化するか」の選択も大切に感じます。
このことを授業に落とし込んだとき、意見を選ぶ選択肢に【お任せします】がたまにはあっても良いように感じます。
似た言葉に「どちらでも良い」というのがありますが、なんか主体性も受動性も放棄しているように思えるんですよね。
任せていることに、意識を向ける。
それは主体的に受動的になることと言えるのではないでしょうか。