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リーダーシップ論としてのサーヴァントとウェイター

サーヴァント・リーダーシップというリーダーシップタイプがある。初めてこの言葉を耳にしたときは、何を言っているのかわからなかった。というのは、サーヴァントとはリーダーの反意語だと思っていたからだ。しかし、様々なリーダーシップ論に触れて理解を深めて行くに連れて、もはやサーヴァント・リーダーシップこそ目指してみたいリーダーシップタイプだとすら思うようになった。今回は「サーヴァントとしてのリーダーシップ」がどのように成立するのか、というお話。


まずはリーダーシップ

このテーマを掘り下げるには、「サーヴァント」と「リーダーシップ」両方の意味を見ていく必要がある。おそらく私がかつて「サーヴァント・リーダーシップ」が理解できなかったのは、「サーヴァント」に対しても「リーダーシップ」に対しても誤解があったためと思うからだ。

先に「リーダーシップ」を腑分けしたい。詳しいところはまた別の機会にするけれど、私が考える「リーダーシップ」とは「ありたい状態に向けて人を誘う行為」だ。そう考えると、その方法は様々であることがわかる。大聴衆を前にして情熱的に大きなビジョンを描いて見せるのももちろんそのやり方の一つだ。もしくは、向かわせたい方向に向かわない人を罰し、見せしめにすることで人を誘うこともできる(良い方法かどうかはさておき)。ムチではなくアメで誘う方法もあるだろう。

サーヴァントをどう訳す?

一方で「サーヴァント」。こちらのほうが厄介だ。Servantの和訳は「召使い」「使用人」とされることが多いだろう。でもこう訳してしまうと出口が遠くなってしまう。「命令に従う人」と捉えると、「命令する側がリーダーなのだから命令される側がリーダーであるわけがない」というのが普通の発想だと思う。

もう少し抽象的に捉えてみると、「奉仕する人」という言い方ができる。これだとどうだろう。「奉仕する」という行為は、命令されてするものだろうか。必ずしもそうではない。例えば有能な執事をイメージしてみよう。執事は、おそらく主人の命令を受けて動くこともあるが、いちいち命令されずとも主体的に主人の事を考えて動くイメージがないだろうか。場合によっては敢えて命令に背くことすらあるだろう。もちろんそれは気まぐれに背くわけではない。命令に従うことが主人のためにならないと考えているからだ。

召使いと執事の違い

この違いはなにか。つまり、「召使い」と「執事」の違い。私は2つあると考えているが、そのうちの一つは主体性だろう。召使いには主体性がない。執事にはある。サーヴァント・リーダーシップの「サーヴァント」は、主体性を持ったサーヴァントのことを意味している。

もう一つは、目指すもの、ありたい状態の有無だ。主人のためを考えて勝手に何かをするのも、主人の命に場合によっては背くのも、自分が考える有りたい姿あってのこと。サーヴァントは、主人を導く意思を持っている。

マザー・テレサはどうしてあれほどの影響力を持ったのだろう。彼女は「権力」を持たなかった。しかし圧倒的な「権威」を持っていた。なぜ権威を持つに至ったのか?マザー・テレサは、有りたい姿、目指したい社会を胸にいだき、その姿に少しずつ近づいていくために、意志を持って人に奉仕し続けた。圧倒的なサーヴァント・リーダーの姿だ。

その人は、サーヴァントか、それとも。。。

レストランに行ったとしよう。グラスはすでに空いている。次のワインを頼みたい。やむを得ず手を挙げると、「お伺いします」と来てくれる人のことをなんと呼ぼうか。「ウェイター」かもしれない。

一方、別のレストランにて。素晴らしい料理とともにおしゃべりに興じ、話が一息ついたタイミングで、「次のお飲みものはいかがですか?次のヒラメに合うのはこちらかこちらになりますが、今のワインがお好きなようでしたらこういうものもございます」などと声をかけられる。そういえば相手も自分もそろそろグラスが空きそうだ。こういうシチュエーションにおいて声をかけてくれた人のことをなんと言うだろうか。「サーヴァント」と呼んでよいだろう。敬意を込めて。

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