自己否定と幼少期の記憶 1

先日、勝手に敬愛している坂口恭平さんの著書「その日暮らし」が届いた。
坂口さんは双極性障害(今では双極症に変更)という体質の持ち主なのですが、僕も気分の上がり下がりが酷く、気分循環症という病名で2月から休職中です。この症状が出始めて辛かったことの一つが「本が読めなくなった」こと。中学生の頃、朝の会で10分間本を読む時間があり、その当時はやっていたハリー・ポッターを読み始めて一気に本が好きになって様々な小説を読み、20代前半には地元の書店でもアルバイトして本三昧な生活を送っていました。ただ去年辺りから好きだった小説、本全般が読めなくなり、読めないというのは文章を目で追っても意味が理解できないことや、今までだったら頭の中で浮かんでいた情景などがでてこなくなりました。最近ようやく漫画など最初から絵+文章のものを読める(理解)ようになりアニメで放送されている原作の小説なら頭にその光景が浮かぶということを知り、嬉しくなって初ラノベ作品の「無職転生」を12巻〜26巻まで一気読みできました。
ただ未だに読めないのが小説、ビジネス書等の背景を想像しづらいもの。あ、今書いていて思ったのですが、もしかしたら読めないと思い込んでるだけかもしれないのでまたチャレンジしてみようかと思ってます。
坂口さんの著書はその点、Xの文章、noteの記事、動画、などを拝見してるので想像し易いのか今回届いたエッセイはすんなりと読み進めることができました。なんというか、肩肘張ってないというかふわっとした感じが全く苦じゃないのが驚きでした。内容は今の僕にとってかなりすごいことをされているので中々すんなりと真似できないなとは感じていますが、その中でも印象に残ったのは寂しさと自己否定について。気分が下がっている時、自分のことを価値がない、生きている意味がない、どんな方法でなら、などを頭の中でぐるぐる考えすぎてしんどくなることがよくあって、今までは急に訪れる嵐のような感じでとりあえず去るのを待つ、という認識でした。今回のエッセイでその自己否定の先に行き着いたのは幼い頃の寂しさと恐怖という点に触れられており、そこで考えると僕にも思い当たる節がありました。
自分の幼少期で一番古い思い出をたどると思い出すのが幼稚園を転園した初日、母が離れていくのを泣きながら見送っているところ。今思い出していると急にソワソワして落ち着かなくなってるので蓋を開けようとしてるのかも少ししんどい。両親は20歳の頃僕を身ごもって、まだそういう結婚は世間的にも厳しい中生んでくれました。なおかつ母からよく聞いていたのは姑家族のイビリ、確執。父も守ってはくれなかったそう。僕が3歳頃までは近くで住んでたようですがそれもしんどくなって少し離れた場所に引っ越しました。両親は必死で日々を生きていたんだと思います。僕も21歳で長男を授かって10年以上必死で生きてきました。ただ事あるごとに起こる喧嘩や夜中に母からの父の愚痴や不満を聞いているとあまり仲が良くなく、関係をよく保つ努力などもできてなかった気がします。また辛かったのが愚痴を言われている父にそっくりなのが僕だから。その環境の中で過ごしているとまぁ、なるほど。寂しさ、孤独さが勝ってしまって、自分自身への信頼なんて出てこない訳です。
今回のエッセイを読んで、昔からずっと抱えていた、なんとも言えない寂しさ、孤独感を少し認識できました。けれどまだ坂口さんが書かれている自身の幼少期との対話まではできていません。そもそもできるようになるのかさえ分かりません。けれど一つの選択肢というか道を見つけられた気がします。少しずつ時間をかけて深く掘っていこうと思います。


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