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教育じゃなくて、育教だろ‼️

教育とは、「教え、育てる」と書く。ただ、この言葉は間違っている。はっきり言う、間 違っ て い る。
子供たちを、学徒たちを導くには、まず、育てる(学問に興味を持たせるとか)が先である。その後に、やっと教える(知識を与える、蓄えさせる)ことができる。
 ただ現代はどうだ。いっぱいいっぱいのカリキュラム、知識、経験(ここでは、試験のパターンを繰り返しただ覚えるだけのことを指す)でしか判断できない試験、総合点で判断する"一般"入試、みんなが皆んな勉強嫌いという学校(もちろん、みんなが言うから嫌いという人もいる)。嫌いなやつに嫌いなものを押し付けても、もっと嫌いになるだけだろ❗️もし、できるようになってもそれは洗脳だ‼️それは生徒らを導くという本来の目的から外れた行為、結果だ(もし、彼らを魔の道に導くことを目的にしているなら話は別だがな)。以前私が慕っている、お世話になっている人と哲学に関する勉強会をした。正直、哲学を知りたいという渇望はあったが、私は勉強(つとむを強いる)が嫌いだった。高校の教育方針が憎かった(もちろん、私の目から見たもの、実際はもっといいのかもしれない)。だから、少し不安を感じていた。だが、楽しかった、純粋に。あんなに嫌だった"勉強"が。そのときに私は悟った、学問は本来楽しいものだったのだと。学びたいという気持ちがあれば、"勉強"がどれほど素晴らしいのかを。
こうなってしまったのは、我々人類が道理をわきまえてないことが根本だが、原因はきっと「みんなに教育を与えたい」という善意、美しき心である。皮肉にも、美しき心が醜い結果を生んだのである。美しき心だとしても、道理をわきまえなければ我々は酷醜な存在に成り果てる。だからこそ、私は憎むのである、このどうしようもないコウゾウを。だからこそ、ブッダの説くような「諦め」で世界が、教育が変わると思う。人々が道理に従うようになる、私はそう信じたい。

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