スズランに帰る夢【うたすと2】
雨粒がきらめいている。月はその姿を隠し、泣いているような星々が、夜道に反射している。
私は、群集とは反対方向に向かって歩いていた。途中で声をかけてくる人や、肩を掴んでくる人もいたが、私の目を見て、あきらめたように去っていった。
悲鳴交じりの声が聞こえてくる。怒号、泣き声。地獄とはこんなに美しいものだったのだろうか。
人々が去っていくと、静かな雨音だけが私の耳に触れるようになった。
廃遊園地のメリーゴーランドに、『危険』の看板。『ふるさとを返せ』という落書き。
私は帰るわ、あの場所に。
雨に濡れて歩くのなんて、子供の頃以来だ。
私は懐かしむ。幼き日々を、恋を、夢を。
あの庭に咲いた、アマリリスとスズラン。
花束にして笑ってくれた、遠い日の誰か。
星はきらめいている。雨は歌っている。夜はただ静かに、私を見つめている。世界がただそこにあるように、私を引き止めずにいてくれる。
私の暮らした町は、今日、水の底に沈められる。
当初の計画より前倒しになったのは、反対運動が過激化したことと政府の思惑が要因だった。
反対運動による負傷者が出ることを予測していなかった政府は、町を沈めることのメリットを説いた。『裂け目』から放出する未知の有毒ガスを確実に沈静化させる、唯一の手段だとアピールした。
終わりに向かう地球を救う手段のひとつ。
それが、私たちの町が犠牲になる大義名分だった。
警備にあたる人間の目を掻い潜り、私はあの頃の家にたどり着いた。
「立ち入り禁止」の看板を蹴飛ばし、リビングに座る。星たちが、青く庭の花を照らしている。手入れもされず、荒れた庭。
私は、手に持ったスズランの花束を机に置いた。
「もう一度幸せであれ」
私は願う。もう一度、ここで暮らしたい。
家族に囲まれ、犬猫や花々を愛し、友と遊んだ、あの日々に帰りたい。
残された古い犬小屋。猫の爪とぎ跡。古びた車と、サッカーボール。
懐かしい友の声がする。
この花束は、私から私への贈り物だ。
もう一度、あの幸せに私は帰る。ここで生きた日々に、私はこの命を預ける。
ありがとうも、さよならも言わない。
たった一枚残った家族の写真を、そっと撫でた。
「…ずっと一緒だよ」
遠くで警報が鳴った。そのあとで、水が流れる轟音が響く。
私は、あの幸せとここにいる。
スズランが、寂しそうに揺れた。
了(944字)
#うたすと2
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あとがき
こちらの楽曲を基にしています。
ナル史上一番悲しいかもしれない。
普段はそこまで破滅的なものは書かないのだが、どうしてもこうなってしまった。なんだろう、精神状態だろうか…。
『Bouquet de muguet』の世界観を壊していないか心配なのだが、『もう一度』の幸せを願う対象を、過去の自分にしてみたかった。
ふるさとを離れなければならない悲しさを、幻想的な世界観に沿って書いたつもりだ。災害など、こうした状況は他人事ではない。特に、東北の人間として。
個人的にはかなり思い入れのある作品になった。愛していただけたら幸いである。