【ショートストーリー】黒白
小さな手に触れた。
柔らかで壊れそうなのに、血が通うそれを、男は見ていた。
2020年代後半、世界各国の紛争地域で「黒い悪魔」と「白い悪魔」が目撃された。それらが現れた地域では、紛争当事者国の首脳が殺害されたり、あらゆる武器が突如として使用不能になったりし、争いが急激に収束するという出来事が相次いだ。どういう形であれ争いが終わることから、人々は彼らの出現を願った。
しかし、2030年代に入ると、「黒い悪魔」がその姿を消し、「白い悪魔」だけが目撃されるようになる。その頃から、各紛争地域での争いは、過激さを増していった。
「スヴェン、スヴェン!」
スヴェンと呼ばれた少年が振り返る。両手にはたくさんのチョコレートの袋。
「スヴェン、そんなにたくさんのチョコレート、どうするつもり?」
母親であろう。女性がスヴェンを叱り付ける。
「ふぁふぁにゅほっていきゅ!」
口いっぱいにチョコレートを頬張りながら、少年は答えた。
女性はぽかんと口を開けた後、大笑いした。
「あなた、食べすぎよ。まるでリスみたい!」
パパに持っていくのね、女性は笑いながら、チョコレートの袋を受け取る。
「パパ、何作ってるかしらね。」
二人は歩き出した。
ヨーロッパのある国。海に面した田舎町に、親子は暮らしていた。もうすぐ5歳になるスヴェンと、母親のローザ。そして、父親のラインハルト。
ローザは生まれてからずっと、この町で暮らしていた。学生時代にはバレーボールに熱中し、明るく活発な女性だった。7年前、旅行でやってきたというラインハルトと恋に落ち、すぐに結婚した。ラインハルトは都市部の出身で、他に身寄りはいない。機械いじりを趣味とする、優しい男だった。
どおおおん、と遠くのほうで音がした。
スヴェンとローザは、咄嗟に身をすくめた。チョコレートの袋が手から落ちる。
「心配するな、海の向こうだ。」
男の声に二人は顔を上げる。
「パパ!」
ラインハルトだった。落ちたチョコレートの袋を拾い上げながら言う。
「2030年代後半から、兵器の技術は急速に進歩した。さっきのは、多分…」
あの大国のだな、と彼は言い、チョコの包み紙を開ける。
「…嫌になるわね。」
ローザが渋い顔をして言う。戦争、戦争、戦争。どれだけ時が経ってもなくならない。それどころか、進歩していく技術は、皆人殺しのために使われる。
「いやになるわね。」
スヴェンがローザの真似をするように言う。両親を見上げ、にかっと笑った。
ローザは泣きそうな顔になって、スヴェンを抱きしめた。どんなに争いがひどくなろうと、私たちはこの子を守る。絶対に。
「ママ?」
ラインハルトはスヴェンの頭を撫でる。
そのときだった。
高く、気味の悪い金属音が響く。
ラインハルトの作業場の上空。空に穴が開いていた。
「まずい、逃げろっ!」
ラインハルトは、咄嗟にスヴェンとローザを逃がそうとした。きいいいい。金属音が大きくなる。
「やっと、やっと見つけたよ。」
空の穴から、何かが下りてくる。
それは、「白い悪魔」だった。
「君がいなくなって苦労したんだ。殺す以外、できなくなってさ。」
白い悪魔は、誰かに向かって話しかけている。
「兵器については僕は詳しくないから。君みたいに無力化なんてできない。だけど、人間は争うだろう。だから僕はたくさん殺した。争いをなくすには、人間が死ぬしかない。」
そうだろう、悪魔は笑った。耳まで裂けている口。三対の白い翼。全身には白い羽毛。目の前にいるそれは、名前を呼んだ。
「そうだろう、黒。いや、今はラインハルト、だったか?」
ローザには、意味が飲み込めなかった。ラインハルトが、「黒い悪魔」?
たしかに、白い悪魔だけになったとされる時期と、ラインハルトに出会った時期は近い。だけど、そんなことがあるのだろうか。愛した人、最愛の人が、悪魔、だなんて。
「パパは悪魔じゃない!!」
スヴェンの声が響いた。ローザは、我に返る。
「白い悪魔」がスヴェンを見た。その顔が歪む。
「黒、君はそこまで馬鹿だったのか。人間との間に子を作るなんて。」
悪魔はスヴェンとローザに近づいていく。そして、右手を振り上げた。
「殺してあげる。だから、戻っておいで、黒。」
「やめろ!」
「白い悪魔」の手が、肉を貫いた。
ラインハルトの腹部に、悪魔の手が突き刺さっていた。
庭がみるみる血に染まっていく。ラインハルトが声を上げる。
彼の背に、二対の黒い翼が生えていた。
「やめろ、白。俺の、俺の家族に…手を出すな。」
白い悪魔は返り血を浴びて、微笑んだ。
「…いいだろう。夜明けまでに僕のところに戻って来るなら、その二人は殺さないでいてあげよう。来ないのならば、皆殺しだ。」
どのみち、僕のところに来なければ君は死ぬけどね。そう言って、悪魔は空の彼方に消えた。
夜が来るまで、ラインハルトはローザに全てを話した。
自分が「黒い悪魔」であったこと。自分は武器を無力化することで、白は人間を殺すことで、争いを終わらせようとしていたこと。
元々は人間の兄弟であったこと。神に願ううちに「悪魔」になったこと。
人間が争いをやめないことに絶望していたこと。そのさなかで、ローザを見つけ、恋に落ちたこと。
「白い悪魔」だけがこの傷を癒せるということ。
このままなら、夜明けとともに自分が消えること。
「…スヴェンは?」
ローザはうつむいたまま、それだけを訊いた。
「あの子は、ちゃんと人間だよ。俺たちも、元々は人間だったから。」
「…そう。」
「…俺、行くよ。全部終わらせてくる。」
ローザは、顔を上げることもできなかった。行かないで、とも言えなかった。
ただ、家族で幸せでいたかった。スヴェンが大きくなるまで、自分たちが歳を重ねても、ただ、家族でいたかった。
「ローザ。」
ラインハルトは、ローザを抱きしめた。
「ありがとう、出会ってくれて。」
愛してる、そう言い残して部屋を出る。
その腹部には、作業場で作っていた機械が埋め込まれていた。
ラインハルトは、眠るスヴェンを見ていた。
もう、人間の姿を保てなくなっていた。口は耳まで裂け、歯はむき出しになる。真っ黒い羽毛が、体を覆う。
「パパ…?」
スヴェンが目を覚ましかけている。
「見ないでくれ、スヴェン。」
せめて、「人間・ラインハルト」として、別れたかった。
スヴェンは、目を開けた。
「パパ。」
にっこり笑って、爪の尖った手に触れる。
「またあした、ね。」
少年はまた眠りについた。
夜空を見上げる。
行かねばならない。
「ラインハルト!」
声に振り返る。ローザがいた。
「私も、私も、出会えてよかった!」
「黒い悪魔」は笑った。二対の翼で、夜空へと消えていく。
愛してる、愛してる。
ローザの声が、響いた。
「やっと来たね。」
夜空の彼方、宇宙に近いところに「白い悪魔」はいた。
「ようやく、兄弟水入らず。抱擁でもしようか。」
悪魔は、ラインハルトを抱き寄せる。
黒い爪が、白い体に突き刺さる。
「…何の真似だ、黒。」
ラインハルトは、腹部の機械を作動させた。
空間が、脈打っている。
「…何をした、答えろ、黒!」
「…いつか、こうなると思っていた。」
「何だと?」
「だから俺はずっと『封印』するための機械を作っていた。人間として生きてきた間、ずっと。」
「白い悪魔」は逃れようとしてもがいている。黒い爪が、逃さぬように深く突き刺さる。
「黒、黒!僕たちが死んだら、人間は争いの連鎖から抜け出せないんだぞ!それでもいいのか!」
黒い悪魔は、笑った。
「俺は、ローザとスヴェンを信じている。人間を、信じる。」
空間の鼓動が早くなる。
「白い悪魔」の絶叫が響く。
自転車、教えてあげるはずだったな。
虫取りの約束、してたのにな。
ローザの料理、また食べたいな。
スヴェン、大きくなれよ。
ママを頼む。
ローザ、スヴェンと幸せでいろよ。
愛してる。
一際大きな、どくんという音がして、黒白の悪魔は消えた。
「スヴェン、スヴェン!」
少年が振り返る。あれから、3年が経っていた。
「…また、パパのところ?」
「うん!」
スヴェンとローザは歩き出した。
遺体のないラインハルトは、失踪したことになっている。そのため二人は、ラインハルトの作業場に墓を作っていた。
戦争は終わる気配もなく、毎日どこかの紛争地で、誰かが死んでいる。
戦闘機が、雲を作りながら遠くのほうへ消えていく。
「パパ、がっかりしているかな。」
ローザはため息をついた。
「大丈夫だよ。」
スヴェンは胸を張る。
「僕が、僕たちがいるから。そして僕が必ずね…」
世界を変えるんだ。そう笑った顔は、あの優しかった男と、そっくりだった。
親子は、空を見上げた。
飛行機雲が、遠くへ伸びている。
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