【ショートストーリー】酔いて、宵
「もう一軒行くかあ。」
謙介はそう呟きながら一人、次に入る居酒屋を探し始めた。36歳独身、他に趣味のない彼にとって、独り呑みはかけがえのない時間であった。既に他界した両親ともに酒豪である彼も、当然のようにそうなった。浴びるように酒を飲んでも平然としている様と、198cmというその巨躯から、同僚からは「鬼」や「戦国武将」などと呼ばれている。
歓楽街にあった先ほどの店を離れ、川沿いに歩いていく。少し夜風が冷たい。冬が近づいていても、クリスマスやバレンタインとは縁遠い暮らしの謙介にとって、季節とは旨い酒の肴を選ぶ基準でしかない。
謙介はいつも二軒目に選ぶ小さな居酒屋を目指していた。席はカウンターで10席ほどしかなく、女将と呼ばれている老婆がいつも一人で切り盛りしている。季節に合わせた料理が絶品で、この辺では知る人ぞ知る名店であった。
「今日は何が出てくるかねえ。」
「えええ。」
妙に自分の声が木霊している気がして、謙介は足を止めた。酔いのせいであろうか。
「気のせいかな。」
再び歩き出す。そろそろ牡蠣でも出る季節だな、と気分を変える。夜風がさらに冷えたような気がする。
3階建てのアパートと潰れたペットショップの間、細い路地に入る。ここを通ると目的の店まですぐだ。
ふいに、自分の足音以外の音がしていることに気付いた。金属音のような甲高い音。耳を澄ますと、音はペットショップから聞こえている。
空き巣でも入っているのか、謙介はそう思い、割れた窓の隙間から覗き込む。そしてすぐに身を隠した。もう一度、そっと覗いた。
壁一面に、人間の目があった。その目のひとつひとつに、男が矢を撃ち込んでいる。矢が目を射抜くたびに、目のある壁から先ほどの甲高い音が響く。
かあん、かあん、かあん。
正確に男は目を射抜いていく。
「なんだよ、あれ。」
男はいわゆる武者の姿をして、髭を蓄えているようだ。暗がりにいるため、それ以上はわからない。
上背は自分と同じくらいあるような気がする。
かあん、かあん、かあん。
そのとき、謙介は足元にあったガラスの破片を踏んだ。ばきっ。その音に武者が振り返る。
「…俺?」
髭を蓄えていることを除けば、完全に自分と同じ顔だった。
武者は、何も言わずにこちらに向かってくる。謙介は逃げようとしたが、足が震えて動かなかった。
殺されるかもしれない。悪酔いにしてもあんまりだ。夢ならさめてくれ。
「そなたは、わたしの子孫だな。」
武者は平然と言う。子孫?
「やっと見つけてくれたか。わたしひとりでは、この百目鬼を殺せぬのだ。」
ほれ、弓矢を貸そう。武者は謙介に弓矢を手渡す。
「はっ、ゆ、弓矢!?」
「未来の者は弓矢を打たぬのだったな。狙いを定めよ。外してはならぬぞ。」
打ち方は教えてくれるようだ。言われたとおりに構え、矢を番える。
「外したら、どうなるんですか…?」
「なに、死人が増えるだけよ。」
死人、という言葉に謙介は震えた。なんだ、なんなんだ、これは。
「よおく狙えよ。これ、息を整えよ。」
吸って、吐く。それを繰り返す。謙介は、覚悟を決めた。
ひゅっと音がして、矢が飛んでいく。
かああんっ。一際高い音がした。見事に命中したのだ。
「よくやった!」
武者は大喜びしている。謙介は全身の力が抜け、地面に膝をついた。
「わたしの子孫よ、よくやった。」
武者は膝をつき、謙介を見た。
「あれは、百目鬼の目玉だ。この世に不利益をもたらすものだ。戦や疫病、災害といったものを、この目玉どもが運んでくるのだ。」
百目鬼。謙介も聞いたことのある鬼の名だった。
「わたしは百目鬼に呪われた。未来永劫にわたって奴の目を射抜き続けねばならぬ。しかし、わたしが射抜いてもその目は元に戻る。わたしには、殺せぬのだ。」
壁を見る。武者があれだけ潰したはずなのに、目はまだたくさん残っている。矢は、一本も壁に刺さっていない。
「だが、そなたら子孫が射抜くことで、その目は本当に死ぬ。」
見ると、謙介が射抜いた目からは血があふれ、矢が刺さったままになっていた。他にもわずかだが、同じような目がある。
「…呪い、とかまじかよ…。」
そうだ、と武者は言った。
「奴の呪いは手ごわい。わたし以外の人間の矢は、一度だけ奴の目を殺せる。一度だけなのだ。」
じゃあ、まだ呪いは。言いかけた謙介を制し、武者は言う。
「わたしは今までも、そしてこれからも、わたしの子孫を待たねばならぬ。そして、彼らに目を射抜いてもらわねばならぬ。この世のため、そしてわたし自身のために。申し訳ない。」
武者は頭を下げた。謙介はあわてたが、すぐにはっきりと言った。なぜだか涙があふれた。
「俺に、俺までいのちを繋いでくれて、ありがとう。」
武者は跳ねるように頭を上げ、目を見開いた。そしてぽろぽろと涙を流した。
「礼を言うのは、こちらのほうだ。そなた、名は?」
謙介。そう伝えた。
「よい名だ。謙介、どんな世になろうとも、生きよ。誇り高くな。」
かあん。甲高い音がして、視界が明るくなる。謙介の意識は途絶えた。
目を開けると、ぼろぼろになったテーブルが見えた。
向かおうとしていた居酒屋のカウンターだった。他に客は誰もいない。女将が奥で調理する音だけが聞こえる。
「夢、か?」
酔い潰れて眠ったのだろうか。それでもよかった。怖かったが、心地のいい夢だった。
見ると、テーブルの上には、牡蠣など季節の料理が並んでいる。注文した覚えも、店に入った覚えもない。
「褒美の馳走じゃ。」
あの武者の声がする、そんな気がした。誇り高く。できるかわからないが、生きていこう。
牡蠣を頬張る。旨い。冬になることの一番の楽しみはこれだった。
そこで謙介は、ある事実に気付いた。あの武者の子孫たちが戦うのなら。
「俺も結婚しないと、いけないんじゃないか…?」
夢だとしても、あの武者のためにそうすべきだと思い始めた。長年遠ざかっていた恋をしてみるか。
日本酒を飲む。少し辛いこの地酒は、遠い昔から作られているという。
謙介は、月明かりの差し込む窓にグラスをかざした。あの武者にも届くように。
日本酒の余韻は、少しだけやさしかった。