混沌と秩序


この社会のエントロピーの増大感が
急に恐ろしくなった

「男」か「女」だった私たちはLGBTQ+になり
いろんな方向からの問題提起によって
価値観は多様化して
善人と悪人の境はより曖昧になり
理想の人生も教育の在り方も各個人によって違う

混沌としている

もとより混沌とした世界だったものを
知識や教育や歴史によって
分類して秩序立てて来たのが今の社会/法律ではないかと思う

でも今それを改めて様々な角度から問い直すことで
見えなかった混沌が暴かれてきているように感じる
こうあるべき、と教えられてきたモラルは本当に正しいのか?
個人が自分の在り方を問い直し
どんどん不確かな存在になっていく

なにが正しいのかわからない社会に
なにが正しいのかわからない個人が溢れ
秩序がなくなってきているように感じる

このまま増大していったら
社会はどうなってしまうのか

ジェンダーレストイレは犯罪の温床となり
廃止されてしまった
誰1人取り残さない社会は果たして実現できるのか

私は人間がこの混沌状態の加速に耐えられるとはあまり思えない

マーク・トウェインは「人間とは何か」という本の中で
人間は生まれ持った気質と環境(外部からの刺激)によって全ての行動が決められており、自由意志などなく、全ては自分の安心感を満たすために行動が決定付けられている、と言っていた

私はこの思想に全面的に納得している
思想というより事実だと思っている

何が正しいかわからないという状態は不安だ
会社員になりたがる人間
優秀な上司に指示してもらいたい人間
犯罪者を檻に入れて欲しい人間
自分で考えなくても自動的にお金が手に入るシステムの中に入りたいし
自分で考えなくても良いことをしている風な感覚でありたいし
自分で手を汚さなくても怖い人は社会にいない方がいい
安心して生きたい人間にとって混沌状態は都合が悪い部分が多いように思う


混沌と秩序はループしているのではないか
つまり掴み処のない混沌状態を解決するために
何かをまた「定める」ことで秩序を作り出すのではないか
しかし何かを定めるということは何かを取りこぼすということだと思う
その時は争いや悲しみを伴うだろうなと思う


樹木が育つ過程で
近くにある同種の株と栄養を奪い合ったり
日光を奪い合ったりするように
人間と人間も争いを避けられない
人と近くなりすぎると距離を置きたくなる
近づくとその分傷つけ合う生き物

でも樹木が1本ではすぐに絶滅してしまうように
人間も1人では生きられない
群生して助け合って生き延びている

法律は秩序のための必要悪なのかもしれない
私たちは教育によって道徳感を育てられてきた
おばあさんが電車で立っていたら譲る
譲らない若者がスマホを弄っているのを見て苛立つ
それは何故なのか

動物や植物を見れば
種の存続に影響しなくなった、老いた個体を
見放すような繁栄の仕方をしている種は珍しくないのに

私たちは教育されている
群生する植物の本能のような、相互扶助の心を「善」として
近くにある個体の栄養を奪うような、どうしようもない搾取を「悪」として
法律によって定められて、掟としてインストールして生きている
それを犯したら基本的人権が剥奪されても文句が言えない社会を、当たり前に受け入れている

でもそれを改めて問い直してしまったらどうなってしまうのか
自分のしていることが善なのか悪なのか
わからなくなってしまったらどうなってしまうのか

善悪に限らず全てのものごとは
他の物事の状況、時間、空間に起因して存在している相対的なものなので「本質」は無く「空」である
という仏教の教えがある

老子も、この世には絶対的な善悪や美醜などない、「知識」を用いての人為的な「理解」をせず、「無為に至れば無限の在り方を体現でき完璧に整う」と言っていた

人類全員が無為に至ることはできるのか

その境地に至った人のことを「仏」と呼ぶけれど
「仏」になったときその人は人間か?
無為に至って無限の在り方を体現したときその人は人間か?

「人間」である限りその境地に至ることはできないのではないか、という疑問が拭えない
もっと仏教を勉強すれば拭えるかもしれない
私の解釈は誤解かもしれないけれど

自分の心の内をなるべく無為に近づけることはできるかもしれない
しかし毎日食事をしてお金を稼いで生きていく限り
完全なる無為になるということは不可能ではないだろうか
何かを食べないと生きていけないということは
食欲を無くせないということであり
そこに執着があるということであり
食欲を無くした瞬間私たちは餓死してしまう
社会の中で食べ物を得るということは
人と協力することであり、人と奪い合うことである
仏はこの世で生きていけるのか?

無為自然であるということは
淘汰される人間にも心を痛めないということでもあるのではないか
喜びも悲しみも何もかも意に介さない状態で
生きていけるのかわからない

私は生きていくのならば方向性として
無為自然を目指すのは向いてないのかもしれない
などと無知で生意気なことを思った

老子は理想的な国の形として「小国寡民」を説いていた
文明の利器を用いる場所がなくて
過剰な知識や欲がなくて
衣食住について現状に満足していること

それに暮らしとして近いのは
上京してきた東京よりも
12年前に置いてきた静岡の地元の山奥の方なのではと思ったけれど

東京から田舎に戻って
暮らしが豊かになるイメージは湧かなかった

田舎はとても息苦しかった
周りはいつも人の目を気にしていた
小さな村にも欲望は渦巻いている
完全なる孤独な暮らしに近ければいいのかもしれないが
小規模な村は逆に諍いを生むように思えた
これは経験上の話だから定かではないけれど

それよりは混沌とした東京の方が
あらゆる生き方を許容してくれる気がした

東京の暮らしの方が
0に近いと感じているのかもしれない
0と10よりも、0と無限の方が近いのかもしれない
変な話

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