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みんな何かを信じている

みんな何かを信じている。
なにかを絶対とみなして、その上に足場を組み立てて生きている。
盲信している人もいれば、意識的にそうしている人もいるかもしれない。

今の私からは、人の価値観はほぼ宗教観と同義で、人1人1人が宗教的に見える。

私は自分は無宗教者だと思っていたけれど、そういう意味では多分、自分教に入っている。

信仰宗教を信じている人のことや、スピリチュアルに傾倒している人のことを、それを信じるに至る過程が自分にはわからないな、などと思ってしまっている部分が、今まで多少あった。

でも、「AIに魂は宿るのか?」という問いについて考え始めたことをきっかけに、感情とは?感覚とは?生命とは?などの根源的な事柄が現代の科学では定義できていないのに、皆「なんとなくこういうもの」くらいの認識で世の中が回っていることに疑問を持つようになった。
宇宙は本当に広がっていっているのか?物質を構成する最小単位である素粒子は大きさが無いのではないか?などの問いに明確に答えられる人も今はいなくて、私たちが「科学的根拠」としているものや、社会規範や倫理規範って、本当に正しいのか?と考えはじめると、「これが必ず正しい」と言える絶対的なことなどないように思えてしまった。

今は、無宗教を名乗っている人も全員それぞれ自分教に入ってるように見える。
何かを信仰するということは、異質なことではなく皆していることだと思うようになった。
他者には到底理解しきれない経験、身体感覚、意識を積み重ねて、自分にしかわからない価値を基準に生きている。
みんな自分が見たいものを見て、信じたいものを信じて生きている。

それは個々の幸せのために必要で大切なことだと理解しつつも、今の私には全員何を信じているのかわからなくて怖い。
そして私自身も何を信じてきたのかわからなくて怖くなった。

怖いと感じるようになったのは、
幼少期に両親が私の価値観のベース(足場)を強固な刷り込みによって作っていて、やっとその足場が今になって、自重によって壊れたこと、いやジャンプして壊したことにも起因しているように思う。
それによって足場がなくなって心許なくなり、たしかなものってなんだろうと考えてみたら何も思い当たらなかったのだった。

周りは何を土台に人格を作っているのか、観察してみても、外からは何も見えないようにコンクリートで固められていたり、どこかで見たような張り紙を使って芯を作っているようにみえたりした。
この人は信じられることを言っている気がする、と思う人は何人もいるけれど、その人たちもその思想が出来上がるまでの全てを見せてくれているわけではない。
私はその過程が知りたい。
というより、その人の考えを隅々まで理解するのは無理なので、信じられそうなことを自分で探し出す方法が知りたい。
何を積み重ねていけば、安心できる足場ができるのだろう。
今はそれを探して、本を読んだりポッドキャストを聞いたりしているんだと思う。

そしてこの文章を書いている今、考えたことをアウトプットして残していくことが足掛かりになるような気がしている。

西加奈子の「サラバ!」という本の中で
——
信じられるものなら、何でも良かった。
あらゆる人の、たくさんの苦しみ。決して解決出来ないものもあったし、どうしても納得出来ない残酷な出来事もあった。きっとそういう人たちのために、信仰はあるのだろう。自分たち人間では、手に負えないこと。自分たちのせいにしていては、生きてゆけないこと。
それを一身に背負う存在として、信仰は、そして宗教はあるのだろう。
だがおばちゃんは、それを既存のものには求めなかった。
——
という節がある。
おばちゃんは言う。
「あの子には、自分で、自分の信じるものを見つけなあかん、て言うたんや。」
この言葉が体感を持って今私に刺さっている。


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