欄干から落ちていく肉体とメトリックモジュレーション —— 芸術を用いた自由意志のモデリング可能性について
札幌市の北区に住んでいる。北海道大学は国立大学のなかでもおそらく有数のアクセスの良さで、JR札幌駅の北口から徒歩5分程度で大学の正門に辿りつける。正門から少し西へ進むと南北にのびる並木通りにつきあたり、その通り(メインストリート、略してメンストと学生たちは呼ぶ)に沿って各学部の建物や研究施設がズラズラと並んでいる。
札幌駅以北の北海道大学周辺のエリアはきれいな碁盤の目状にまちが整備されていて、北海道大学や周辺の私立大学(藤女子大学や天使大学)の学生が住む学生街になっている。私のアパートは北海道大学のメインの敷地が占めるエリアから若干北寄りのところにある。
札幌に住みはじめて(大学への入学を機に札幌に来た)3年目あたりからスープカレーにハマりはじめ、いまでは週に少なくとも2回、多くて5回はスープカレーを食べる生活を送っている。スープカレーは札幌の名物で、観光客のうち8割5分は滞在のうちに食べにいくだろう。だけど、観光客が食べにいくような有名店に地元民はあまり行かず、観光客用のスープカレーと地元民が愛すスープカレーには乖離がある。そのことに気づくまでに3年かかった。
最も好きなスープカレー屋のひとつにか〜るま〜るというお店がある。か〜るま〜るは札幌中心部からやや離れた白石区に位置している。車の免許すら持っていないため移動手段がもっぱら自転車に限られている私は(電車という手段ももちろんあるがメシのための交通費に500円以上かけられるほど余裕のある生活は残念ながらおくれていない)、雪が積もっていない期間30~40分ほどかけてチャリを飛ばしてその店に向かう。
自宅から少し南に向かい、北郷通を左に曲がって、北区と東区を分つ創成川という小川を越える。そこからずっと道なりにチャリを漕ぎつづけるとお目当てのか〜るま〜るに辿りつけるのだが、その途中で東区と白石区を分断する豊平川というわりかし大きい川を越えることになる。地形の関係かこの辺りは風が強く、橋を渡っているあいだずっと横からのあおり風をうける。風に抗うようにして立ち漕ぎの姿勢になると、私の胸部から上がさほど高くない橋の欄干から飛び出すかたちになる。ふと左に目をむけ、欄干のすき間から川を見下ろすと橋が結構な高さにあることに気づく。相変わらず上半身を乗り出しつつ、右からあおり風を受けてる私はふとハンドルをにぎる手元が狂い、左側の欄干の方にチャリを寄せる想像をする。もしそのまま欄干に激突し、いかなる抵抗もしなければ一般的な成人男性に比べて小柄な私の肉体はその衝撃に身を任せて落下していくかもしれない。死に対する強いオブセッションがあるわけではないし、希死念慮を抱くこともさほどない私だが、なぜかその橋を渡るとき落下して潰れる私の肉体の姿をありありと想像できる。立ち漕ぎをしているあいだ、欄干から落下していく肉体にかかる重力を内臓が想像している。その不快感を遠ざけるようにしてペダルを漕ぐスピードを上げ、橋を渡り終える。
私は橋を渡っているあいだ、欄干や風といった環境に触発され、計算可能な数多の行為可能性のなかから最もありそうもない「欄干から落ちていく私」を想像し、その想像に抵抗するようにしてチャリを漕ぎつづけた。そのとき、私は橋の上でチャリを漕ぎつつ、同時に欄干から落下していた。少なくとも私の肉体はその二つの行為のあいだで引き裂かれていた。私はまだ死にたくないので、「実際に」欄干から落下することはなかった。しかし、そのとき想像された「欄干から落ちていく私」が「橋の上でチャリを漕ぐ私」のあり方を追い越したなら、私は肉塊になっていたかもしれない。
自死や自傷行為を含む突発的な暴力はそのような「私」の引き裂かれによって為されるのではないかとたびたび考える。「無意識」というよりは、外的な環境から演算しうる数多の行為可能性の先で生じる数秒先の「私」に対する抗いがたさ。環境に対するこの肉体の抵抗力のなさ。そのような抵抗力を芸術によって引き上げることは可能だろうか。
メトリックモジュレーションと呼ばれる音楽技法がある。1小節の分割の仕方を変えることによって、あたかもテンポが変わったかのように聴かせる手法だ。リズムの基礎単位(8分音符とか16分音符とか)の長さはもちろん維持しつつ、アクセントと休符の配置を変えるだけでそのような効果を作り出せることができる。
ceroはおそらく現代の日本のわりかしメジャーなバンドのなかでは最も複雑なリズムを構築するグループの一つだ。いわゆるシティポップ・リバイバル的な文脈と袂をわかった4thアルバム『POLY LIFE MULTI SOUL』に収録されている曲「遡行」は途中まで4/4で進行するが、終盤から12/8へと変わる(ちなみに同アルバム収録の「ベッテン・フォールズ」は5/8→9/8→4/4とよりラディカルな構成だ)。接続が自然なためボーッと聴いてるとイマイチわからないが、リズムを取りながら聴くと、それまでのノリ方では流れてくる音にからだが追いついていかないのがわかる。それまでの流れから予測される肉体の動きと実際に流れた音によって強制される肉体の動きにズレが生じ、踊る私の肉体はバグる。そのバグのなかで肢体を変な方向に撒き散らしつつ、より安定的な動きを探るようにして、リズムを取り直す。
これは一度でもクラブで踊ったことのある人間であれば誰しもが体験したことのある事態だろう。もちろんBPMの異なる曲をスムーズになるべく違和感なく繋ぐことを良しとするDJもいるが、むしろ異なる曲が強引に接続されるときに生じる肉体的な違和を熱狂へと変換するDJを私は信頼している(多くのDJを知っているわけではないがthe hatchのヴォーカル山田碧はそのような変換をおそろしく繊細にコントロールすることで、狂乱をフロアに生み出すことのできる稀有なDJだと思う)。
芸術は肉体的な模倣を観客/聴衆に強制する。それは本質的にジェームズ・フレイザーが類感呪術と呼ぶものに該当し、芸術と観客/聴衆のあいだには必然的に権力関係が媒介する。ceroと同等か、あるいはそれ以上に複雑なリズム構築を得意とする長谷川白紙はインタビューのなかで次のように述べている。
多くの芸術は基本的に観る/聴く肉体に対して一定の時間を要求し、その時間性をいかに構築するかは、肉体に対してどのような模倣を強制するのか(あるいはしないのか)に直結する。複数のパターン(リズム)が一つの作品の中に同居しているとき、それを模倣しようとする肉体は対象の複数性のなかで、どのパターンを選択すればいいかわからずに引き裂かれる。この引き裂かれは私が橋の上で体験した引き裂かれに似ているが、クラブで踊っているときこの苦痛は快楽に変わる。そこにはあるリズムに準じて踊る「私」から別のリズムに身を任せる「私」への跳躍の予感が孕んでいる。
自由意志が存在するか否かはいまだに人文学と科学の双方を巻き込んだ重要な争点となっている。自由意志の問題になると必ずと言っていいほど話題に上がるのがベンジャミン・リベットによる実験だ(ベンジャミン・リベット『マインド・タイム 脳と意識の時間』,下條信輔訳,岩波書店,2005)。いわく、人間が何かの動作を起こそうとしているとき、その動作を実際に行うコンマ数秒前にはすでに脳内に準備電位が生じている。人間の意志に先んじて脳内の電位が生じていることを明らかにしたリベットの実験は当時、自由意志が存在しないことの科学的根拠とされた。が、当然リベットの実験は単純化された行動しか扱っていない点や、意識と意志を取り違えている点など多くの問題点があり、自由意志が存在しないことの根拠としては弱すぎる。現在では自由意志と決定論は両立しうると考える両立論が妥当かつ穏当な立場だとされている。自由意志をめぐっては、そもそも「自由」という言葉が具体的に何を差しているのかという言語学的な問題から、量子論的ゆらぎをどう扱うかという物理学的問題にいたるまで多くの問題がある。
自由意志の根拠を反実仮想のシミュレーション能力に求めるという議論は割と一般的になりつつある(『現代思想2021年8月号 特集:自由意志』(青土社)所収の田口茂や谷村省吾、渡辺正峰らの論考を参照)。人間を含む一部の動物には外的な刺激を知覚してから、それに反応するまでのラグにおいて、自身の行動が及ぼしうる結果をシミュレートする能力が備わっている。脳内における仮想的シミュレーションと現実世界とを突き合わせることによって、自身の長期的な利益を最大化することができ、そこには自由意志の介在が認められるのではないか、というタイプの議論だ(とりわけ上述の渡辺の議論はその色が強い)。私はこのような議論に部分的に賛同しつつ、部分的に反対する。自由意志が存在するとすれば、それは確かにシミュレーション能力、つまり幾つかの行為可能性を現在から演算した上でそのうちの一つを選択するという能力のうちに認められるだろう。ただし少なくとも人間において、この能力は必ずしも長期的な利益の最大化へと直結しないのではないか。
近藤和敬によれば、人類という種の際立った特徴は単なるシミュレーション能力の獲得にあるのではなく(そのようなシミュレーション能力は他の哺乳類もある程度有している)、他者も私の行動をシミュレートすることが可能であることを自身のシミュレーションの中に組み込んでしまい、その結果として一種の無限後退が生じるという点にある(近藤和敬『人類史の哲学』, 月曜社, 2024)。それは進化というより、見方によっては一種の退行だ(無論それゆえに高度なメタ性を獲得しえたのも事実)。他者のシミュレーション可能性をも考慮することによって、環境から演算可能なシミュレーション予測は膨れあがり、一種の膠着状態が生じる。その膠着状態のなかからコミュニケーションを含む他者への働きかけや行動は、無根拠かつ場当たり的に為される。もちろん成長の過程でトライアンドエラーを繰り返し学習することによって、そうした無根拠さを忘却することは出来ても、人間には本来そのような他者や世界に対する根源的な無根拠が張り付いている。私が橋を渡っているあいだ無意味で致死的なシミュレートをしたように、膨大なシミュレーション可能性のなかで選択をできずに、肉体が押し潰される可能性は常に存在している。
芸術はそのような根源的な無根拠を観客/聴衆に対して空け開く。一つの楽曲に複数のリズムが同居するように、一つの映画や文学に複数の時空間が同居するように、一つの絵画に複数の筆致が同居するように、そこには膨大なシミュレーションの可能性が押し込められている。制作者(たち)はそれらを自らの肉体にとって必然性をもつようなかたちでまとめあげ、観客/聴衆はそれらを引き受け自らの肉体にとっての必然性を探しもとめる。しかし、制作者が抱える必然性は観客/聴衆おのおのに対して自明なものとして提示されるわけではない。諸可能性の束としての芸術は観客/聴衆にとっては本質的に無根拠なものとして立ち現れる。その無根拠さを前に、芸術の抱えもつ運動を肉体が模倣しようとすることによってじょじょに必然性がつくられていく。そのようにして、世界の無根拠さに対する肉体の抵抗力がかろうじて引き上げられる。
私はフランスの映画監督ロベール・ブレッソンの研究をしている。私が生まれた翌年に亡くなったフランス人と私とのあいだには何の必然的なつながりもない。にもかかわらず、私は彼の映画をはじめて観たときからなにかしらの強い必然性をそこに感じてしまっている。研究を進めるうちに彼の作品と私とのあいだの必然性(の感覚)は否応なしに強まっていく。来年か再来年には提出するであろう博士論文は、彼の映画を観たときに感じたてざわりと彼の映画群と私とのあいだに作りだされた感覚のからくりとを解き明かすようなものになってくれればいいと思う。
2024.10.29
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