『隔たる世界の二人』、大事なのは「どこ」に戻されるのか

ニューヨークで黒人グラフィックデザイナーのカーター・ジェームズは愛犬ジーターに餌を与えるために恋人のペリーのアパートから自宅へ帰ろうとするが、通りで白人のニューヨーク市警のメルク巡査と遭遇したことをきっかけにタイムループに閉じ込められてしまう。最初の出会いでメルクはカーターが吸っている煙草の匂いがおかしいと主張して所持品検査を強行し、彼は抵抗したために2014年のエリック・ガーナー(「息ができない」)や2020年5月のジョージ・フロイドのように窒息死に追いやられ、次の瞬間にはペリーのベッドで目が覚める時間まで戻る。ループを繰り返すカーターはアパートから出ないことにするが、すると今度は部屋番号を誤解した機動隊によって射殺されてしまう。(Wikipediaより)

2020年Netflix公開の短編映画(30分くらいしかない)。あらすじが言ってることは疑いようもない事実で、これは明らかにアメリカ警察による有色人種への不当な拘束殺人を下敷きにしたSF作品である。映画のラストで実際に死んだと思われる被害者の名前がリスト表示(かなり長めに)されるのもそのせい。もちろん、カーターが死を何度も「繰り返す」というSF設定は、実際に不当拘束殺人が何度も「繰り返されている」という現実の反映だ。故にループという設定上の「あり得なさ」は、現実に起きている事件の「不条理(あり得なさ)」の移し替えであり、このSF(サイエンスフィクション)はだから、フィクションではない。

ちなみに、この映画の一番驚かされるのは、実はループしているのがカーターだけでなかったという場面。なんと、カーターを殺し続ける警官もまたループしていた(ことが仄めかされる)のだ。そりゃ、どんなにカーターが繰り返しても警官から逃れられないよ!しかし、するとやはりこの「繰り返される死」は逃れようのないものなのか?ループ世界の出口は、閉じられたままなのか?

いや、「出口」がダメな時は、むしろ「入口」をあたるべきなのだ。

カーターは毎回警官に殺された後で、毎度恋人ペリー(正確には恋人ではなく、恋人になりそうな関係)の隣で目覚める。この時、我々はついつい、その「回帰」を見て、「あぁ、またやり直しだ」と思うかもしれない。またペリーの部屋に戻った。カーターはこの後、あの警官に再び殺されるのだ、またあの「死」を繰り返すのだ、と。だが、どうせ時間的にループし続けるこの映画なのだから、実は因果関係の進行方向を一方的な時間軸に当てはめる必要はない。逆に、カーターはペリーのもとから警官の元へと行く(そして毎度失敗する)のではなく、むしろ警官の元から絶えず繰り返しペリーの元へと行っている、と考えてみたらどうか?なぜなら、ペリーとカーターはこんな会話をしているからだ。

ペリー:また会ってみてもいいと思ってる、あと何回かね。
カーター:何回かって10回?それとも20回?
ペリー:あと300回でどう?

どう考えても、このやりとりはこの後でカーターが繰り返すキツイ「死」の繰り返しの予告なのだが、しかし逆に言えば、カーターと警官の関係(「死」=終わりの繰り返し)はカーターとペリーの関係(「起床」=始まりの繰り返し)とちょっとした等価関係にあるということである。であれば、「入り口」は単なる「始点」というわけではない。むしろこの二つは「一致」しているはずである

例えば、カーターはペリーの部屋から出る時、ペリーの部屋「番号」の装飾を指で弾いて回転させている。なぜ回転させるのか?ペリーの部屋はおそらく9号室なのだが、「9」の装飾は釘が抜けたのか半ば落ちかけ、「6」になっている。二つの数字の反転関係。それを指で回すと、視覚的にはちょうど無限マーク=♾️に見えるのである。するとこの「部屋のドア」(とは、まさに「入り口」にして「出口」だ)は、二つの世界のループがまさに「回転」によって一体化しているという裏の事実を告げているはずである。

さらに、実はあの最後の「死亡者リスト」もまた、ペリーと警官との相似関係の一部と言える。

カーター:メールする。ポーラだよね?プレスリーか。パリス?違うな。パースレイだ!またねパースレイ
ペリー:昨日は私の名前を呼んだのに
カーター:ペリーだね。炭酸水に似た名前だろ?

カーターは部屋から出る時、ふざけたようにペリーの名前を忘れたふりをする。この時、カーターのおふざけで幾人もの「名前」を投げかけられるペリーは、幾人もの死者の「名前」(最後の死亡者リスト)をたった一人で背負う(が故にループする)カーターと似ている。やはりカーターと警官の関係(死のループ)は、カーターとペリーの関係(生のループ)と同じなのだ。

故に、「なぜカーターはあの警官に殺され続けるのか?」(終点)という問いが行き止まりならば、やはり「なぜカーターはペリーの元へと戻り続けるのか?」(始点)という問いの方こそを、カーターは突き詰めるべきなのだろう。「出口」が「入り口」であるという円環が因果関係の「袋小路」であるのに対して、「入り口」が「出口」であったという円環は、逆に「解放」であり得るのだから。

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