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レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』

 このマガジンは基本的に私が読んだ本(研究書や人文書がメインになるだろう)についての感想めいたものを書いていくことになると思う。とはいえ、その本についての要約みたいなものを載せるということは基本的にしない。私は一冊の本を読むのに大体1週間から2週間くらいかかる。文系の博士課程学生のなかでは遅い方な気がするが、こればかりはしょうがない。ここでは、当該の本について考えたことと読んでいる期間に思いついた取り止めのない思考とをごちゃごちゃに混ぜながら書いていくことになると思う。その本を読んでいる(いた)時間と自分の日々の生活や肉体とを適度に抽象的なかたちで紐づけるために。
 日記にしようかとも思ったが、やめた。とりわけコロナ禍以降、日記ブームがつづいている。日記に関しては、福尾匠鈴木一平をはじめとする非常に充実した蓄積があるし、そもそも日記を自分に課しても続いたためしがない。夏休みの宿題でよく日記が課されたものだが、不真面目な私は1〜2週間くらい書かずに慌てて不確かな記憶を頼りにしつつ、1〜2週間分をまとめて書いていた気がする。そこにはおそらく何もなかった日を無理やり盛り上げるためのいくばくかの嘘が含まれていた気もするが、書いてしまったあとになって記憶が書き換えられて自分でも嘘なんだか本当なんだかよくわからなくなっていた。ここに明確な嘘を書き込むつもりはないが(そんなことしなくとも勝手にフィクショナルなものになる)、少なくともある思考に具体的な日付を与えることはしない。1〜2週間というゴロッとした単位のなかで気づいたことや、あるいは思い出した遠い昔の出来事などを1冊の本を基盤としつつ詰め込んでいく。日記が「日付」という外的な装置に頼るように、このマガジンは「本」という外的装置に頼ることになるだろう。とはいえ、最後に投稿日を付すから結局「日付」にも頼るハメになるし、日記として読めるものにはなってしまうが。もちろん前回の記事みたくある程度まとまったかたちのエッセイめいたものも定期的に書く予定。


 さて、本題。レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(奥野克巳ほか訳, 亜紀書房, 2018)を読む。いわゆるパースペクティビズムと呼ばれる人類学の一潮流を代表するような書物なのだと思う。パースペクティビズムの代表的な論者であるヴィヴェイロス・デ・カストロの『食人の形而上学』より読みやすく、人類学に馴染みのない私でもだいぶサクッと読める内容になっていた。上妻世界『制作へ』のなかで重要な参照先の一つとなっており、山本浩樹『新たな距離』所収の荒川修作論(『制作へ』に対する応答として書かれている)のなかでも言及があるので、なんとなくの内容が大体わかっていたというのもあるかもしれない。
 現在の人文学の花形はもっぱら存在論的転回以降の人類学、アクターネットワーク理論、思弁的実在論の三つ巴となっているが、この辺りの思想全体を見取り図的に提示しているのは清水高志『実存への殺到』ぐらいしか知らない。渡名喜庸哲『現代フランス哲学』は未読だが、目次を見る限りこの辺りを網羅していそうではある。とはいえ、今はフランスが現代思想の最前線という印象はかなり薄れているので、果たして「フランス」という国で括る必然性がどこにあるのかは正直わからない。むしろ、「フランス」という国でしばることによって、技術哲学や科学哲学、政治哲学までをも包括できるような入門書を作れたのだろうか。いずれにせよ、いつか読むことになると思う。


 かまいたちMCのトークバラエティを見てたら「関西人200人に聞いたカラオケ中のイヤな行動」みたいな特集(?)をやっていた。2位が「歌を聞かずに他のことをしている」で、1位が「歌の最中に割り込んでくる」だった。カラオケなんて2件飲み放題をハシゴした後に、歓楽街の光が網膜に張りつき誰が何を言っているのかもよくわからない酩酊状態のまま、とりあえず腰を落ち着けるために雪崩れ込んでは、気力の残っている奴らだけが歌って、残りの連中は爆睡したりトイレで吐いたりしているような無秩序な場所だと思っていたから、カラオケにそんな繊細な秩序を求めている人間がたくさんいるなんて純粋に驚きだった。あとカラオケのアンケートをなぜ関西で縛るのかもよくわからない。最初から見ていたらわかったんだろうか。ちなみにこの番組の番組名は『これ余談なんですけど…』で、かまいたち含め出演者はトークを始める前に「これ余談なんですけど」と一言前置きを入れる決まりになっているらしい。だけど、流れでトークしているからたまにその前口上を忘れる。するとトークがひと段落してから、「まぁ、これ余談なんですけどね」みたいに慌てて番組のルールに則ろうとする。これも僕にはよくわからない秩序だ。だけど、その様がなんだかいたく滑稽で面白い。誰もなんだかよくわかっていないけど、どこかで勝手にそうとだけ決まっているルールに則ろうとみんな必死なのかもしれない。僕も自分じゃ気付かないだけできっとそうなのだろう。


 喫茶店に入ったらFrankie AvalonのWhyが流れていた。大学1年か2年のときに観た『牯嶺街少年殺人事件』を思いだす。小猫王のハイトーンボイスがあまりに美しくて聴き入ったのを覚えている。その数日後に五十嵐耕平『SUPER HAPPY FOREVER』を観にいったら主役の佐野がOver the Seaを歌う場面が『牯嶺街』のWhyの場面に似ている気がしてびっくりした。けど、いざ『牯嶺街』の該当場面を見返してみたら別にそんなに似ていなかった。五十嵐監督の短編『メルヒェン』の冒頭があまりにエドワード・ヤン的だったから、その印象に引っ張られて錯誤を起こしたのだろう。
 『SUPER HAPPY FOREVER』についてはnobodyで書かせてもらったから、それを読んでほしい。この批評は1回だけ映画館で観て、翌日には書き上げていた。nobodyでは3年くらい定期的に書かせてもらっているけど、こんなにあっさりと映画の批評が書けたのは初めてだった。おそらく、今まで書いてきた批評的なテクストのなかでは一番短い。この評では、交換、翻訳、贈与を軸として書いた。もちろんこの3つを軸にしていたら書けることはもっとたくさんある。佐野がスマホを海に投擲すること、別れ際に佐野が宮田に対して「また連絡する」と約束すること、佐野と凪の後ろで電話する宮田の相手の声が例外的に観客には届かないこと、凪と来るはずだった友人の祖母が死んだという話が事後的に凪の口から間接的に伝わること、宮田の背中が死んだ凪の背中に似てしまうこと、それが佐野にとっては耐え難いことであること、鏡が幾度となく劇中に登場し、実像と虚像が入れ替わるその先で帽子が鏡から現れること、Over the Seaが鼻歌で歌われることetc…
 昔は一本の作品について可能な限り全てを言いたいと思っていたし、そのために複数回観たり何度も書き直したりした。でも今回は全部を書かなくてもいいのだと割り切れた。それはおそらくskiptracingで公開した『アメリカン・スナイパー』論を書いたときにどんなに全部を言いたくても、全部は言い切れないと身をもって学んだからかもしれない。全部は言えないから、あとは読み手を信頼するしかない。これくらいの材料をいい具合にまとめてさえいれば、あとは映画を観て僕の文章を読んだ人が再び考えて、また何かを書くかもしれない。不思議なもので、「かもしれない」という見えない読者に対する留保つきの信頼が自分の文章をより自律した、強度のあるものにしてくれた気がする。文章を書いていてそういう実感を掴めたのはとても良かった。映画批評家のセルジュ・ダネーが昔どこかで「短い批評を書くのがますます楽しくなってきた」と言っていたが、その意味がようやくわかってきたかもしれない。
 ちなみに『SUPER HAPPY FOREVER』の評を書いていたとき、今日訃報が飛び込んできた楳図かずおの『わたしは真悟』が頭のなかにあったのだった。


 『ソウル・ハンターズ』の内容はほとんど千葉雅也『動きすぎてはいけない』だった。ものすごく雑なまとめであることは確かだが、しかし両者がほぼ同じであることも事実だと思う。たとえば以下、ハイデッガー的な自己と世界の即時的な融合に対する反論の箇所。

ユカギール世界の一般的な特徴は、他なる存在と同一化することのほとんど無限の可能性である。人間は動物に変容し、動物は人間に変容する。またある身分の人間は他の身分の人間になる。ここには根本的な断絶はなく同一のものが他となり、他なるものが同一となる、持続的な置き換わりがあるだけだ。
 バード=デイヴィッドに従うならば、こうしたすべてのことは、アニミズムが、自己と他者のある種の融合的な同一化に基づいていることを明らかにするものと解釈されるだろう。だが真実は、実のところ正反対なのである。ユカギール人が人間と非人間、あるいは生者と死者の間に乗り越え不可能な存在論的障壁を設定しないことは、彼らが自己と他者の差異化に没頭しないということではない。反対に、保証されたア・プリオリな差異がないということは差異を例示する様々な日常的実践をとおして絶えず差異を作り出し続けなければならないということである。

レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(奥野克巳ほか訳, 亜紀書房, 2018)pp.309-310

あるいは、ラカンの理論を参照しつつ反駁する以下の箇所。

 思うに、これが指し示すのは、鏡像段階を発達段階として考えるのはおそらく間違いであることだ。すでに指摘したように、ラカンのアプローチをユカギール人に当てはめる上での主たる困難は、まさしく「段階」という彼の考え方にある。それは、「伝統的な」狩猟民と西洋の子供のライフステージとを危険なほどに同一視してしまっている。だが、いかに私たち自身の身体的な断片化が決して完全に乗り越えられないか、またいかに自己と他者との間の境界はいくら流動的で目立たないものであり続けるのかに関する多くの実証的な例に照らして見ると、ラカンの理論が実際に描いているのは、現実の時間におけるひと時のことではなく、自己であることと身体を持つことの本性であると私には思われる。ラカンが提供しているのは関係的な枠組みであるが、その中では、内在的あるいは本質主義的なアイデンティティを維持することはできない。ラカンにとってもまたユカギール人にとっても、自己は境界づけられた、単独的な存在としては理解されえない。なぜなら自己は、他者性とのライバル関係、つまり決して実際に和解されることなく、生涯をとおして私たちを悩ませ続けるようなライバル関係において、もしくはそれをとおしてのみ、発展し、形づくられるからだ。

レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ――シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(奥野克巳ほか訳, 亜紀書房, 2018)pp.125-126

 いずれにせよ全面的な他者/世界との同一化=ホーリズムに抵抗し、かといって単純に自我/他我という近代的二項対立を承認するのでもなく、その両者を程度問題として考え、そのために「差異」という概念を重視しようとする。東浩紀以降の日本現代思想、あるいは先述の存在論的転回以降の人類学、アクターネットワーク理論、思弁的実在論の顕著な特徴は西洋的近代の二項対立を退け、全体を程度問題として捉えようとする点にあると個人的には考えている。程度問題によって解決するということはすなわち、その程度の良い塩梅(つまりどれくらい「動いて」よくて、どれくらい「動きすぎないのか」という調整)はもろもろの実践に託されることになる。近年とりわけ人類学が思想的にアツい理由は、その実践性を先住民やフィールドワーカーに仮託しているために机上の空論にならないという点にあるだろう。当然、これは東浩紀がゲンロンを立ち上げるという「実践」をしたこと、千葉雅也が小説や啓蒙書的なものを通じてガラッと文体を変えるという「実践」をしたことに通じている。この「実践」が可能になったのは日本という国のアカデミズムと批評との曖昧な関係が功を奏した結果とも言える気もする。逆にいえば、西洋はいわゆる「アカデミズム」の硬直化が激しく「哲学」なるものが規律化しすぎていてこのような実践的な方向への転回は難しいかもしれない。ジャック・デリダが晩年に<大学>について考えていたというのはアカデミズムと批評の関係を再考する上でいろいろ示唆的だ。


 お笑いライブを見にいく。金属バット、ケビンス、エバースという札幌ではなかなか見ることのできない豪華なメンツの揃い踏みで、札幌よしもとの芸人たちもかなり気合が入っていたように思えた。目当てはここ数年M-1決勝に進出するだろうと言われ続けていながら、未だ準決勝敗退に留まっているが、今年こそは間違いなく進出するだろうと巷で噂されているエバースだった。エバースの漫才は少しばかりかまいたちのそれに似ている。佐々木のボケは論理展開にあからさまな詐術があるのだが、順を追って聞いているとどこでズレが生じ、おかしな論理展開になっているのかに気づくことは案外難しい。町田がその度ごとにツッコミを入れてはいるものの、実際それは「ツッコミの演技」であって佐々木の論理展開のズレの本質的な部分にツッコむことはせずに観客が佐々木の詐術に巻き込まれることを助けている。ボケとツッコミが表面的には対立を作りつつ、観客を相手取った際にはメタレベルで共同しているという二重性の巧みな構築の仕方(これ自体は漫才の基本だが、かまいたちやエバースの場合はボケとツッコミという役割分担を超えて、ディベートの様相を呈し、論理展開のズラせ方が大事になると同時にとそれによってツッコミ/観客を二重で騙す必要性が生じる)がかまいたちに似ている。とりわけ舌を巻いたのは町田が素で女性蔑視とも取れる発言をするくだり、その段階ではそれがベタな発言に取れるため、観客席には若干の緊張感が漂うのだが、後半でその発言が佐々木の展開する論理の中で揚げ足を取られる羽目になり、町田が悶絶する。マッチョで古風な風貌の町田とそれに比してフェミニンな風貌の佐々木という二人の視覚的対立と、現代のお笑いとコンプライアンスのはざまに走る微妙な緊張感をうまく利用し、会場は爆笑に包まれていた。かまいたちの漫才には男性同士のマウンティングの戯画化的な側面があり、それはひろゆきの論破ブームに通じる側面を持ち合わせていた。コントインして視覚的な想像力とギミックに頼るのではなく、むしろ言語に内的な論理展開の破綻の先で中性的な佐々木が古い男性像の権化たる町田を嘲笑するエバースの漫才は、小泉進次郎的トートロジーのミーム化と自民党の旧来的価値観の崩壊と同時代的なものを感じさせる。


 福尾匠『非美学』は発売日に買って1週間程度で勢いで読了したけど、そこで書かれていることがどういうことなのかは正直わかっていない。近々、再読することになるだろう。『非美学』の一つの特徴はラカンの不在だ。ラカンを経由した途端に、スピノザ的な言葉と物の連合説からデリダ的誤配へのバックターンという図式を免れないだろうという警戒心がうかがえる。とはいえ、やはり『非美学』という書物がそこで否定神学批判と括られる三者(東-千葉-平倉)からどれくらい距離を取れているのかという点はいまだに掴めていない。福尾と平倉の対談では、「見て、書く」という二つの諸能力についての議論が中心となっていた。平倉は「見て、書く」ためにはその人物の名においてその二つを媒介する記憶力が必ず必要になってくるだろうと主張する。ならば、「書く」という行為が「見る」ことなしに自律的になるなんて本当にありうるのかと問いただす。福尾はこの問いに対して、「見る」と「書く」という二つの諸能力が一人の人物内部において記憶力を媒介させられるのは仕方がないこととして認めつつ、そこに誰か別の第三者がやってきたときに、その二つの自律性がテストされるだろうと答える。
 ここで福尾が述べていることを私はskiptracingやnobody、あるいはこのマガジンといったふうに書く媒体を複数化させることによって徐々に実感しつつある。とはいえ、やはり疑義は残る。どこまで「見る」ことができれば、「書く」ことをしていいのか、『非美学』のなかで印象的に繰り返される「触発」とは具体的にどのような事態を指すのか、そういったことはやはり実践のレベルで随一確認していくしかないのか。この辺りの点がまだあまりピンときていない。もうすぐ発売される『ひとごと:クリティカル・エッセイズ』でその辺のことがクリアになったりするのだろうか。なればいいなぁと思うけど、そもそも僕は映画研究者で、福尾さんは哲学者だ。そもそもの「職業」が違う。僕の職業はまず他者=映画がないとはじめられず、そこに他者が「いてもいなくてもいい」とは職業柄言えない。だから、もしかすると(いい意味で)福尾さんの仕事と僕の仕事は全然関係がないのだと思えるかもしれない。それはそれで非常に幸福なことだと思う。


 小説でも物語でもなく、その小さな紙面をごく私的な内容で埋めるだけで、当時はそれなりに満足していたはずだった。一日ごとに新たな一枚と向き合い、形式からすればやはり日記なのかもしれないが、日々の雑感めいたものをただ書きつけるばかりで改めて読み返すものでもなく、記録整理といったことには頭が回らなかった。そもそももとから綴じていないバラバラの紙片に書こうとするのが、日々の記録として保存したいという意志に欠けていた。
 整理法として日付を打つとか番号を振るとかしていなかったのだから、秩序だの時間軸だのを初めから放棄していたわけだった。いくら注意深く書いた順に並べていようと、いつ何かのはずみで順序が入れ替わってしまう、そんな事故を防げるとは思えなかった。そうして大量の紙片はほぼ整理されないまま箱のなかに詰め込んであって、自分でも読み返しはしないし、ましてこれらの日常の報告が他人の目に触れようとは思いもしない。ホームページだとかブログだとかで世間に発信するというのは無論のこと、直接誰かに宛てて何か書くこともできないと思っていた。

青木淳悟『匿名芸術家』(講談社, 2015)pp.72-73

2024.11.12

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