努力が嫌いだった。
小さい頃から、嫌々努力をしていた。
いい中学に入るため、いい大学に入るため、いい会社に入るため。
いい会社に入れば、それで実質終わりだと思ってた。
むしろ、本当の意味で努力なんてしたことなかった。
いつも、逆算ではなく、出来たところまでで最終日を迎える。それで何とかなってしまっていた。それで何とかなるレベルで生きてきた。
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ふと、気づけば生活が単調になっていた。
今までは、いい会社に入るため何かと追われていたから、課題をこなしつつ、遊びに行きつつ、遊びのためのお金を稼ぎつつ、何も考えなくてもそれなりに充実した生活が回っていた。
でも、「いい会社」に入ってしまった今、ある意味、何に追われるでもなくなってしまった。
何かに追われないということは当然、終わりがない。最終日が来ない。
課題を終えた感がないので、思いっきり遊びに行くこともできなくなってしまっていた。
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輝いている人たちを見ると、ビジュアル的に輝いているだけと思いきや、そこに至るまでにすごく努力をしている人たちがいることに、最近改めて気づいた。
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昔若かったころ、注目を集めている友達を見てたら、少しわがままで、アピールが上手い子たちがちやほやされているように見えた。
若かった私は、そんな子たちがうらやましかったので、それをまねするようになった。
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少しわがままで自己主張ができ、何かしらをやったことがあり、それなりの学歴がある。
それだけで思いのほかスムーズに来てしまった。研究も、就職活動も。正直、自分でも最初は不思議、そのうち、社会とはこんなもんかと、なめるようになっていた。
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今、その限界にきている。
やりたいこともなければ、なりたい姿もなく、何のスキルも持っていないし、努力自体ができないからだ。
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努力は苦しいもの、避けるのが利口だと思ってきたけど、わたしが友達をまねして手に入れてきたものは、上っ面の立ち位置、待遇だったと、今は思う。
たしかに、社会では、上手くアピールする人が有利になる面はあると思う。
でもそれはどちらかというと、収入や評価など、人が決めることについて。
自分が自分を幸せと思えるかどうかは、意外にも、努力の後に付いてくるものなのかもしれないと、遅ればせながら気づいた今日。
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