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障害を"負う" とは

私はダスキン障害者リーダー育成基金第40期研修生です.この第40期生は各派遣先へ2020年度に出発する予定でした.またそれに先立って事前研修会や壮行会も開かれる予定でしたが,全て延期となっていました.現在はオンラインで研修会を行い準備をしている状態です.先日行われた研修の中に自分が非常に考えさせられたので,今回はそれについて述べていこうと思います.(https://www.ainowa.jp/

自分は中学3年生の時に,左膝に骨肉腫を煩い,手術で人工関節に置換したことで障害を負いました.

自分の障害を説明するときに自分はこう説明します.今回の研修を振り返っていたときに,自分が違和感を感じたのは「負う」という表現です.

障害の考え方として,医学モデルと社会モデルという2種類の考え方があります.医学モデルは,医学的な観点から「あなたはこういう機能が不足しているので障害者である」と判断する考え方です.そして社会モデルというのは例えば,「脚が悪くて車椅子に乗っている」ということが障害なのではなくて,「車椅子の人の前に階段があって登れない」という状況を作っている「社会」がその人を「障害者」にしてしまっているというような考え方です.(自分の解釈なので詳しくはhttps://www.carefit.org/social_model/こちらを参照してください)

車椅子の方は街に段差や階段がなければ,障害なく暮らせるはずです.耳が不自由な方は,コミュニケーションツールが手話である世界だったら,コミュニケーションに障害を感じないはずです.これは極端な例かもしれませんが,社会モデルというのはそういうことだと自分は認識しています.

自分は病気で膝関節が人工関節になってますので,医学モデルとして考えれば,「わかりやすく,明らかに」障害者なんだと思います.ただ自分は生活でそこまで不自由を感じることがありません.

歩けますし,階段は登れますし,ずっと立っていることも,1日買い物などで歩き回っても(多少疲れやすくはなりましたが)あまり問題はありません.これって社会モデルとして考えたらどうなんでしょうか?おそらくそこを明確に定義している方や,それを判断する方はいないと思うので自分がどう思うかってところなのかもしれません.(この「社会」という考え方にスポーツも含むべきなのですが,スポーツに関しての話はまた別の機会に書こうと思います)

言ってしまえば,障害者になっても生活にそこまで大きな影響を受けなかった自分.そしてある意味障害者になったことで,(おそらく健常者のままだったらなり得ていなかった)1つの憧れであったアスリートとしての道を歩むことになった自分.プラマイゼロのことと,プラスなことしか起きてないと言って過言ではないです.なのに障害を「負う」と表現してしまっている.そしてこの表現がしっくり来てしまっているんです.

1つ考えられるのは,「障害を負って,それを克服して頑張ってます」みたいな「ストーリー」を作ろうとしちゃっているかもしれないということです.そういうストーリーってとっつきやすいんですよねおそらく.自分はそこをアピールしていきたいとかそんなに思っているわけではないですし,「感動ポルノ」なんて言葉もあるくらいですから,障害者が障害者たることを発信していくのは良いことだと考えていますが,同情してもらいたいとは思っていません.ですが,話の導入というか,聞いてもらうためのストーリーの一部として,自分の経験談を使ってしまっているのかもしれないと感じました.


「負う」という表現より良い言葉があれば教えていただきたいものです.もちろんこの障害とは一生付き合っていかなければならないのですが,十字架を背負うみたいに言い方をしたいわけじゃないのでね.


性差別,障害者差別,人種差別などいろんな問題が蔓延っている世の中かと思いますが,考えるべきことは共通しているのかな,なんて思ったりします.拙い文章ですが,何度かに分けて自分の考えを綴っていこうかなと思っています.

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