5分で学ぶ!倉俣史朗の生涯と作品を解説【ガラスの椅子に込めた、夢と記憶の中のデザイン】
華やかで浮遊感のある、夢に出てきそうな椅子。
この作者である倉俣史朗は、1960年代から活躍した国際的に著名なデザイナー。
代表作の椅子《ミス・ブランチ》は、赤いバラの造花に液体アクリル樹脂に流し込んで作られた傑作で、その美しい造形と素材から繊細な緊張感が生まれています。
それでいて美しく、見る者を驚かせるデザインは、国内外から高い評価を受けている理由です。
他にも《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》や《硝子の椅子》など、革新的で驚きに満ちたデザインが人気を博しました。
この記事では、倉俣史朗の生涯とデザインに込められたヒストリーを解説していきます。 ぜひ、最後までご覧ください!
1. 倉俣史朗の生い立ちと時代性
1934年、倉俣史朗(1935-1991)は東京・本駒込の理化学研究所の社宅で生まれ。この頃の周囲の物の匂いや手触りなど鮮明な記憶は、倉俣の後の創作活動の源泉となりました。 戦時中に建築家への夢を抱き、東京都立工芸高等学校に進学。卒業後は家具工場で実務経験を積みます。
1950年代、当時の東京では、占領軍の影響によりデザイン文化が花開いていました。美術の領域でも新しい潮流が生まれ、倉俣もデザインを意識するように。
桑沢デザイン研究所在籍中、具体美術展に出会い「価値観が変革した」と述べるなど、同時代の表現に影響を受けています。
三愛ドリームセンター
2023年2月に解体が発表された「三愛ドリームセンター」は、日建設計でチーフアーキテクトとして活躍した建築家・林昌ニの設計の名建築。
銀座4丁目交差点に建つ円筒形のビルは、曲面ガラスの外壁が内照されて銀座の中心に現れる光の柱のような建築でした。 設計当時、この計画を聞きつけた倉俣史朗は、1957年に株式会社三愛に入社し、「三愛ドリームセンター」のプロジェクトに深く関わることに。
売り場の導線やストックヤードの配置、ショーケース、ハンガーラック、値段札までのデザインと設計を担当します。また、伝統的な木材の代わりに構造を維持する限界まで透明アクリルを使用し、斬新なデザインを実現しました。
倉俣はここで働いた経験をきっかけに、倉俣はインテリアデザインのみならず、施設全体を包括するデザインを志向するようになります。
自主制作を通じた問題意識
倉俣史朗は1960年代後半から、《引出しの家具》シリーズなどの家具の自主制作を始めました。 これは単に「つくってみたい」という思いだけでなく、製造や流通を含めた状況への問いかけでもありました。
当時、自費で試作品を制作するデザイナーは少なく、倉俣は自主制作を通して自身の意図を確かめようとしていました。 製品デザインには精緻な図面と職人との協働が不可欠ですが、倉俣は流通経済も含めたデザインの在り方を問うていました。
倉俣は、施主が求める物理的な要求は十分に聞いて絶対に守るが、契約後は一切任せてもらわないと引き受けない。
ただし、プレゼンテーションはどこの事務所にも負けないように丁寧に行い、自身の意図をクライアントに理解してもらう努力しました。 複数提案から先方に選ばせるのは無責任、施主が持つイメージとの擦り合わせは上手くいかない。
このような考えのもと、都市と消費経済に関わる実験と問題提起の場であることも含めた倉俣のこうした態度に、三宅一生をはじめ白紙委任状を渡したクライアントの存在は大きかったと言えます。
2. デザインからの解放とスケッチ表現
1980年代に入ると、倉俣はメンフィス・グループへの参加を機に「デザインから解放され、自由になった」と語っています。
※メンフィス:戦後イタリアデザインを代表するエットーレ・ソットサス(1917〜2007)を中心に活動し、建築家やデザイナーが参加。 影響力は強く、日本からも磯崎新(1931〜2022)、倉俣史朗(1934〜1991)、梅田正徳氏(1941〜)が仲間入りした。
それ以降、観念にとらわれず、自身の手の癖も含めて可能な表現を試みようとしました。 簡単なメモとイラストによるスケッチには、夢からのインスピレーションが表れており、「夢心地」の感覚を大切にしていたことがうかがえます。
機能性とアート性の両立
「使うことを目的としない家具」に興味があると語った倉俣の作品には、機能性とアート性が共存しています。 アクリルやガラス、アルミニウムなど従来の家具材料とは異なる素材を使いながらも、実用性は確保されています。
それは信頼できる職人たちの支援なくしては成し遂げられなかったでしょう。
倉俣の家具に共通するのは、重力から解放されたような「浮遊感」です。作品づくりにおいて「夢心地」の感覚を重視し、観念的でアート的な要素を取り入れていました。
機能美だけでなく、夢から生まれる自由な発想を形にしていったと考えられます。
国内外の店舗デザインで可能性を切り拓く
倉俣史郎は家具デザインで広く知られていますが、実は300件以上ものバー、レストラン、店舗のデザインを手掛けた実績があります。
特にイッセイ・ミヤケのブティックデザインは、現代でも十分にインパクトのあるものばかりでした。 残念ながら、店舗デザインの宿命として、これらの作品は写真や映像でしか残されていません。
また、横尾忠則や高松次郎など同時代の美術家たちとのコラボレーションによって、空間デザインの新たな可能性を引き出した功績も忘れてはなりません。
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