逮捕・拘束、不屈の艾未未(アイ・ウェイウェイ)は謝らない【生い立ちと作品背景を解説】
何かを見透かすような、鋭い眼の男。
彼の名は、艾未未(アイ・ウェイウェイ)。普遍的人権などのテーマに、アーティストと社会の関係を考えるうえで国際的に注目されている、中国人現代作家の一人です。
彼は中国における激動の時代に生まれ、今なお急激に変化し続ける内情と真正面から向き合ってきた数少ない存在として、人間の存在や条件など根源的な問題を提示し続けています。
この記事では、彼の生い立ちや活動背景、中国当局との関係などについて、解説していきます。この機会にぜひ、彼の不屈の精神を知っていただけたらと思います!
1. 労働者収容所で過ごした幼少期
艾未未(アイ・ウェイウェイ)(1957年、中国・北京生まれ)は中国の現代美術家、行動家。彫刻、インスターレション、建築、写真、映像など、表現は多岐にわたり、また文化批評家、社会・政治評論家としての顔も持ちます。
艾(アイ)の父は有名な詩人の艾青(アイ・チン)で、母は同じく詩人の高瑛(コウ・エイ)。父は文化大革命の反右派闘争の際に、中国共産党から非難を浴び、共産党から除籍されました。
さらに、艾が1歳のときの1958年、家族はそろって黒竜江省の労働者収容所に送られることに。
1年半後の1960年には、新疆ウイグル自治区の石河子の労働改造所に強制送還され、艾はそこで育ち、16年間を電気もない原始的な生活で過ごします。
文化大革命が終わる1976年、家族は労働から解放され、北京に戻れることなりました。
1978年、艾は北京映像大学でアニメーションを専攻。校内でのみ上映が許されていた30年代の中国映画やハリウッド映画を目に焼き付けていきます。
また同年、陳凱歌 (チェン・カイコー) や張芸謀 (チャン・イーモウ)らとともに、前衛芸術集団である「星星画会」を立ち上げ、活動を開始しています。
1983年、中国政府からの圧力で解散するが、艾はその後も同グループに関する展示「星星:10年(1989年)」を開催したり、回顧展「出発点(2007年)」に参加したりしました。
2. アメリカでの滞在
1981〜93年の間、艾はアメリカに滞在します。当初は英語を学習した後、ニューヨークに移り、パーソンズ美術大学に入学。
その後、1983〜86年まではイサム・ノグチやマーク・ロスコなど数多くの有名作家を輩出したアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク(The Art Students League of New York)に在籍しました。
そこでは、ノックスマーティンやリチャード・プッストゥダート、ブルース・ドーフマンらとともに芸術活動を展開しますが、ほどなく退学。路上で肖像画を描いて生活したり、日雇い仕事をしたりして生活をつないでいきます。
その当時、艾はマルセル・デュシャン、ジャスパー・ジョーンズ、さらにアンディ・ウォーホルなどの作品を研究しており、レディ・メイドの手法を利用したコンセプチュアル・アートや、パフォーマンス・アートを開始。
また、ニューヨークにいる間に、ビートニク詩人のアレン・ギンズバーグと出会っています。彼は中国を旅行し、そこで著名な詩人であった艾の父(文青)に会ったことをきっかけに、艾との関係はより親密になったそうです。
のちの後漢の壺を落とすパフォーマンス(2016年)や、「コカ・コーラ」と書かれた壺や花瓶には、デュシャン的なレディ・メイドからの影響と、ウォーホル的な資本主義化する中国への批判が見て取れます。
同じくニューヨークに滞在中(1983〜93年)、艾はカメラをいつも携帯して歩き、自分を取り巻く環境を撮影していました。現在その時の写真は選別され《ニューヨーク写真》という作品群として知られています。
そこには、ドラァグ・クイーンのようなメインストリームから外れた人々や、差別されている人々が度々現れています。
なお同時期、艾はブラックジャックに熱中、現在でもギャンブル業界において、一流のブラックジャックのプレイヤーと認識されているそうです。
3. 艾、ふたたび中国へ
1993年、父(文青)が病気になったため、艾は中国へ戻ることに。
その後、実験的な芸術コミュニティ「北京イースト・ヴィレッジ」の設立を手伝い、そこで中国人キュレーターの馮博一とともに、新世代アーティストに関する3部作「黒本(1994年)」、「白本(1995年)」、「グレー本(1997年)」を出版。
この芸術コミュニティには、張洹や馬六明などのパフォーマンスアーティストらも参加しており、1990年代前半の中国現代美術の中心的存在となりました。
1999年、艾は北京北部へ移り、そこにスタジオを構えます。そこは、この頃に建築に関心を持ちはじめていた艾の最初の建築作品。さらに2003年には建築スタジオ「フェイク・デザイン」を設立しました。
以降、北京を拠点に活動を続けています。
2000年に開催された上海ビエンナーレでは、艾は展覧会「不合作方式(Fuck off )」を馮博一とともに企画。
参加作家の中には、肉体を酷使するようなパフォーマンスアートに留まらず、本物の人の死体を用いた作品を作るアーティストまで登場する衝撃的な内容となり、中国人の現代美術展として最も有名なものとなりました。
積極的なインターネット活動
2005年、艾は中国で最も巨大なブログサービス「新浪微博」でブログの執筆を開始。そこから4年間、ブログで中国共産党の政治方針を批判します。
芸術や建築に関する独自の思想や自伝的な内容、厳しい社会批評などを定期的に投稿し、中国国内の注目を集めました。
しかし、政治への影響力が増したために、中国当局は2009年にブログを強制削除。それ以降、艾は毎日Twitter(@aiww)で意見を投稿するようになり、主張の場所を移し変えています。
また、現在はInstagram (@aiww)にも手を伸ばしています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?