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音楽を奏でる絵画、抽象表現主義の先駆者ワシリー・カンディンスキーを解説!

“絵画で音楽を奏でられる”としたら、どう思いますか?

そんなこと、できるわけない!と思うかもしれませんが、無謀にもそれに挑んだアーティストがいます。

彼の名は、ワシリー・カンディンスキー。共産主義が台頭した20世紀前半のロシアに生まれ、時代に翻弄されながらも、独自の表現を追求した、抽象表現主義を代表する作家の1人です。

この記事では、カンディンスキーの生い立ちや作品、時代背景についてざっくり解説していきます。彼の作品に少しでも興味のある方は、ぜひ読み進めてみてください!


1. 教師から絵画の道へ

Wassily Kandinsky. (Photo by Fine Art Images/Heritage Images/Getty Images)


ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)は1866年、ロシアの首都モスクワ生まれ(-1944年)。父が紅茶商人をしていた裕福な家庭で育ち、両親ともに楽器を演奏する文化的な一家であり、彼も子どもの頃から音楽に親しんでいました。

のちにカンディンスキーは、幼少期から色彩に特に興味があったと話しており、彼が最初に覚えた色彩は、白、黒、黄土色のほかに洋紅色、青々と明るい緑だと話しています。色彩に関する象徴性と心理学は、大人になってからも変わらず彼を魅了し続けました。

その後、グレコフ・オデッサ美術大学に入学しますが、卒業後は一旦美術から離れ、モスクワ大学に改めて入学。そこでは法律と経済を学び、それを活かしてタルトゥ大学でローマ法に関する教授職に就きます。

 

民族学からの影響

1889年、カンディンスキーは23歳の時に民族学を研究グループに参加し、モスクワ北部のヴォログダという町を調査しています。旅行中にはロシア農民の文化を調査し、色鮮やかに装飾された建物や家具、民族衣装に感銘を受けたそうです。

この旅行をきっかけに、その後バロック様式の礼拝堂・教会に入るときには、いつも絵画の中にいるような感じを覚えたそうです。その感覚は、《Looks on the Past》という作品に表現され、この時の経験や地方の民族芸術の研究は、初期作品の多くに影響が見られます。

1892年、カンディンスキーは法律の国家試験をパスして、モスクワ大学での教職資格を得ますが、教職に就きながらも芸術的な感性も養っていました。そして、30歳で学者のキャリアを捨て、芸術の道に進むことを選び、本格的に学び始めたのでした。

 

2. ミュンヘン時代と独自の絵画表現

《積みわら》クロード・モネ


モネの「積みわら」との出会い

1896年、カンディンスキーはミュンヘンに拠点を移しますが、モスクワから引っ越す前に訪れたモネの展覧会で《積みわら》を見て、印象派から影響を受けます。

この作品と対峙したカンディンスキーは感動しつつも、それが何を描いているのか理解できなかったそうです。これをきっかけに、“絵画は具体的に何を描いたか分からなくても、純粋な色や形態で成立するのだ”と確信します。

ミュンヘンではまず、アントン・アッベ絵画学校という所で印象派の表現技法を学び、さらにミュンヘン美術院に移って芸術を学んでいます。またこの頃からカンディンスキーは、画家であると同時に理論家としても頭角を出し始めます。

 

純粋芸術としての音楽

《青騎士(1903年)》

音楽は絵画と違い、具体的に何かを模したり再現するのではなく、音の連鎖のみで感動させることができる。そう気づいたカンディンスキーは、音楽を色彩を通じて再現できると考え、1910年出版の初めての理論書『芸術における精神的なもの』において、「色はキーボードで、目はハンマー、精神は多くの弦からなるピアノだ」と述べています。

彼の形態と色彩に関する分析は、画家自身の内面的な表現であり、科学的で客観的観察に基づいたものではありません。主観的で経験的な表現からくるものでした。この頃の理論を基に、多くの作品を残しています。

そのうちの重要な作品として、《青騎士(1903)》があります。緑の草原に覆われた丘陵を、白馬に乗った青いマントの男が猛スピードで駆ける作品で、その前景には青黒い影が広がり、背景には秋の木々が影を落としています。

 

フォービスムからの影響

《青い山(1908-1909年)》

また、初期の作風には、1906年から1907年にかけてのパリ旅行も影響していると言われています。《青い山(1908-1909)》は、カンディンスキーが抽象表現をはじめるきっかけとなった作品です。黄色と赤色の2つの大きな木が隣接した画面の下には、3人の騎手と数人の歩行者が列を成して進んでいます。
騎手の服装やサドルは単色で、人々は具体的には描かれていない。フラットな平野と輪郭の描き方は、フォービスムから影響が感じられます。

フランスをはじめとした欧州旅行にかなりの時間を費やした後、カンディンスキーはバイエルン地方にあるムルナウという小さな町に移住します。1908年、「思いは生きている」という本を購入し、1909年に神智学協会に参加。オカルトやスピリチュアリティにも、関心を持ち始めます。

これをきっかけに、彼の作品は神秘的・包括的な世界観や、神智学からの影響も受け始めます。

 

3. 青騎士時代

《Composition 6(1913年)》


1909年、カンディンスキーは表現主義集団の「ミュンヘン新芸術家協会」を設立、初代理事を務めます。しかし、グループは彼の既成概念を壊す急進的な思想と噛み合わずに、1911年に解散。同じ年に、アウグスト・マッケらと「青騎士」という芸術グループを再び結成し、ドイツの前衛芸術運動で活躍しはじめます。

青騎士は機関誌「年鑑青騎士」を発行し、狭義の芸術だけでなく、デザイン、宗教芸術、音楽、詩、劇など、幅広い芸術に対する姿勢を明らかにし、作品を紹介しました。

さらに、新しい表現手段を探求し、ロシアやフランス、イタリアからの寄稿も掲載。青騎士はのびのびとした芸術家たちの集まりとして、彼が原因で解散することはありませんでしたが、第一次世界大戦の影響で活動が停止しています。


「年鑑青騎士」

時を同じく、1911年にカンディンスキーは論考「芸術におけるスピリチュアル」を発表しますが、これは美術理論家としての代表作。その中では、絵画における色彩は形態の視覚から離れ、色そのものが自律的になると述べています。さらにそれを基に、目に見えるものを、直接人間の内面生活に結びつけようと試みました。

そのためには、抽象性が大事ではなく、絵画的手法を感情的・精神的に内なる衝動と調和させることが大切と考えます。これにより、物質社会の誤った価値観から、人々が精神的世界に目覚めるのを助けるだろうと主張します。

カンディンスキーは現実に存在する表層の代わりに、色彩の“響き”によって精神的な表現を伝えることを思い描いたのです。この「純粋芸術」の思想は国際的、特に英語圏において大変な衝撃を与えました。

1912年に発表した『芸術とスピリチュアル』は、ロンドンの芸術誌『Art News』で取り上げられ、1914年に英語版が翻訳出版されると、カンディンスキーへの国際的な注目はどんどん高くなっていきました。1910年〜1913年に制作された「コンポジション」シリーズは彼の代表的な精神表現として有名です。

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