(日記) 子供と自然
「み・つ!」
...「花の名前?」
「ううん。はなのおしりを、こうやって!すうと、ちょっとあまいの!」
家との家との間にある空き地。
あちらこちらに咲いた紫色の雑草を前に、
小さい手の女の子は言った。
昼前の二月。ちょうど太陽が頭の上を登ろうとしていたとき、四人の子供たちは、柔らかい陽光に包まれながら紫の雑草畑を自由に走っていた。
ペットボトルの音が気になって何度もそれを踏む小さい女の子。ふわふわの雑草の上を歩くのが楽しい、時々虫を注意深く観察する子。お姉ちゃんと一定の距離を保つことに必死な不安な目をした末っ子。風に波打つ紫色の道を走ることに夢中な男の子。
大きな柿の木。その真ん中にあるキジバトの巣を指さすと、子供たちは皆、自分ができる全ての注意を払ってそれを見つめていた。
すずめや名前の知らない鳥たちは、心地いい鳴き声と共に時々畑の上を、子供たちと蝶は花と花との間を、風に乗って気持ちよく飛んでいた。
その中には「連休の最後という時間」も、「スマホ」も、「日々の日課」はなく、ただ「心から笑える子供たち」と「その全てを見守る温かい紫色の畑」、「心地いい鳥のさえずり」があるだけだった。
そして突然それが終わった。
しかし、その突然の終わりを、気にとめる子はいなかった。
・・・
美しい夕焼けや景色を眺め、その美しさに思わず感嘆するとき。
自分は「何と美しい自然だ!」「自然の美しさが分かる自分って何と素晴らしい!」というイメージを通して眺めていないか。
自然の美しさは「自然の美しさを感じ取る感受性豊かな人であるべき」というイメージを通して感じ取れるものでも、カメラやスマホを通して自分が考える美しさという狭い断片の中に押し込んだり、切り取ったりして感じるものではなかった。
それは、そういった全てのイメージからの「自由」、それを一つの記憶として残そうとしない「自由」、いかなる知識や記憶の影響を受けない、ただその時の感覚を通して「自分ができる全ての注意を払って」眺める、その「自由」の中にあった。
その自由の中で、自然は果てしなく輝き、とてつもなく大きな「歓喜」と「安らぎ」を与えてくれる。そう、そのとき、子供たちの目は、まさにその「歓喜」と「安らぎ」に満ちていた。
あの「み・つ」を吸っている間、そのほんの一瞬だけ、自分も同じ「自由」の中で子供たちと一緒に笑っていたかもしれない。
「…あまくないよ。これ…」
「あまいよ!ほんとうだよ!…(ほら!)…あれ?(笑)」
…陽光と紫の畑、蝶と鳥たち、その全てを背景に、
天真爛漫に笑っている子供の表情には、決して記憶では残せない、
決して経験と知識では感じ取れない「何か」が…眩しく輝いていた。