「自分の力で生きる」と心に決めた日。
年が明け、
幼少期から現在までの思い出を振り返っていた。
なかでも特に思い出すのは『痛み』の体験だった。
この『痛み』とは、
同じ女の子に3度もフラれて胸が痛んだ話でもなければ、車に跳ね飛ばされてヒザを痛めたことでもない。ヤンキーにカツアゲされて財布が痛んだことでもなければ、電車のドアに足首だけ挟まれた状態で発車しかけた時の視線の痛みでもない(どれも事実)。
ここでいう『痛み』は「言葉の矢」が心に突き刺さった時の痛みを指す。
思い出すと、今も(当時の自分に対して)すこし心が痛む。
しかし『痛み』は私に
このようなことを与えてくれた。
実際に、ゼロイチ(独立起業など)に挑戦する人に向け「パーソナルコーチング」を。有償レベルのコーチングの提供を目指す人に向け「コーチ育成講座」を提供している。
どちらも「自分の力で価値を生み出せる人間になる」これを最初のゴールに設定している。
しかし
こういったことは 日々忙しさに埋もれてしまうもの。
だからこそ、年のはじめ(といっても1月の半ばだが)に今一度を振り返りながら言葉にしてみようと思う。
❚ 8才
まず、一番最初の『痛み』は小2。
両親が不仲で夜な夜な喧嘩していた。
さらにDV気味だった父は、母や私に手を挙げることも度々あった。家にいると息が詰まる想いだったため、極力、家に寄り付かないようにしていた。
当時は、絶妙なバランスで均衡が保たれていた。
しかし、ある日の両親のケンカは、見るに堪えないほど壮絶だった。そして、それを見ていた私にも言葉の矢が飛んできた。
その言葉の矢は、幼い私の心の一番奥深くまで刺さった。
私は気が動転し「自分なんて役に立たないんじゃないか?」「自分は生きている意味なんてないじゃないか?」そんなことを考えさせた。
そして、
その心の痛みは日に日に強くなり、当時住んでいたアパートの窓から身を乗り出しては「このまま人生が終わってしまえばいいのに」と何度も思った。
当然、
当時の家庭の事情を学校の先生や友人に相談することなんてできなかった。内に秘めることしか出来なかった。でも、どんなに辛いことがあっても、人生はあと何十年も続く。そのことに日々、恐怖すら感じていたためか学校から帰って一人になると憂鬱な気分になった。
私の唯一の願いは「ただただ家族で平和に暮らしたい」この一つだけだった。
しかし、私の願いは虚しく、しばらくして両親は離婚した。
最初はショックに感じたが、夫婦喧嘩も父と母が二人揃って初めて行われるもので、幸か不幸か片親になったことで経済的には不安定になったが、家庭は安定を取り戻した。
この『痛み』は
と私に強く思わせた。
<補足>
ここでは父の話がありました。
もしかしたらひどい親に聞こえるかもしれませんが、この件については話し合いをし、父の意図や生い立ちを聴いたことで受け入れることが出来ました(今では、たまに食事に行く仲です)
❚ 16才
そのまま中学高校と進み、少しずつ自分らしい生活を取り戻していた。
しかし、
実は私は16歳から21歳まで家族との交流を断絶していた時期がある。 この6年間はひとつ屋根の下に住みながらも家族とほとんど交流することはなかった。
背景としては、高1のときに突然現れた母親のパートナーの男(「N」とする)と反りが合わなかったからだ。
Nはある日突然、私の家に現れ、
初対面は、このやり取りだった。
自己紹介で名乗らないどころか「おい」とか「おまえ」と話す人間に出会ったことがなかったため、正直、苦手だった。このため、その後も自宅にやって来た時には挨拶だけで済まし、ほとんど話をすることはなかった。
ところがある日、
母親とささいなことで言い争いをしていると
と胸ぐらを掴まれて、無理やり外に出された。そして
深夜1時にも関わらず、マンションの廊下に響き渡る大声で怒鳴りながら、私を連れ出そうとした。さすがに母親が止めに入り、しばらくして場は収まったものの「次はないからな!」と一方的に言い放っていた。
ことの発端は、
その前日に同級生が事故で亡くなり、彼の葬式に行くにしてはローファーがボロボロだったため新調したかった。ただ、高校の学費を自分で払っていたこともありお金に余裕がなく「お金を貸して欲しい」と母に頼んだ。その際に「そのままでもいいじゃないの!」と言われて頭にきたため揉めたのだった。
つまり、Nは一切関係ない。
今となっては「母に良いところを見せたかったのかな?」そう思うが、とにかく理不尽だと感じた上、平穏な日々が崩れ始めた音も聞こえた。
❚ 19才
それからしばらくし、Nは家に住み着くようになった。
正直、家にいると息が詰まった。
Nは一日の殆どをリビングで過ごしていたため、私の居住空間は4畳半の私の部屋だけだった。自分の家でありながら、他人の家にいるようだった(16〜21才の6年間は、家族と食卓を囲んだことも一度もない)。
それから3年後の19才のとき、再び問題は起こった。
きっかけはほんの些細なことだったが、私とNは揉めた。
このように大声で叫び、そして包丁を強く握りしめながらこちらに向かってきた。「本気で◯される」と恐怖を感じ、私は着の身着のまま家を出た。
(そもそも私は、Nと10秒以上の話をしたことがない。いま思えば、N自身も口をきかない人間が家に居ることの居心地の悪さがあったのだと思う)
家を飛び出した私は、友人に「ちょっと親と喧嘩しちゃったから泊めてくんない?」とお願いし、友人宅を転々としながら数日を過ごした。
それから私自身は落ち着きを取り戻し、母に連絡をした。
私の言い分は単純明快で「なぜNを家に置いておくのか。自分を◯そうとするやつと一緒には住めない」と訴えた。
すると母は、Nの肩をもつ主旨の長文のメールを送ってきた。
そして、最後に書かれていた一文は、心臓にナイフを突きつけられるほど鋭利な一文だった。
その最後の文章を見て、私は絶句し、その日、私は人生で一番泣いた(今でもその瞬間を上回る悲しみを経験したことはないし、今後もしたくない)。
「なんて自分は無力なんだろう」「ただただ家族で平和に暮らしたいだけなのに」と。悔しくて、不甲斐なくて、無力で。
とにかく家には帰れないため、
魂のぬけた抜け殻のように宛もなくフラフラとあるき回った。そこから数日間の記憶はないが、自分でも「このままだと本当にダメかもしれない」と感じ始めていた。
自分のことを話したら全てが崩れそうだったし怖かった。だけど、自分で受け止めきれる状況ではなかったため、信頼できる友人数名と従兄弟にすべてを打ち明けた。
この時、人生で初めて自分の家庭のことを話したが、みんな自分のことのように怒り、自分のことのように心を痛めてくれた。心が癒やされた。
結果、親戚や別れた父を巻き込んでの騒動となり、時間はかかったが問題は収まった(実際は臭いものに蓋をしただけ)。
ここからさらに3年後、Nとの関係はなくなったため、家にも平和が訪れた。
この19才の『痛み』は
そんな理想と強い想いを私に感じさせた。
<補足>
ここでは母の話がありました。
もしかしたらひどい親に聞こえるかもしれませんが、この件については話し合いをし、理解し合うことが出来ました。
また、やりたいことは何でもやらせてくれてる親でもありました(経済的なゆとりがある範囲で!)。中学〜高校は野球部や劇団に入って演劇に勤しんだ時期もありますし、大学にもいかせてくれました。そして、今では経営の先輩(母は飲食店を経営)として仕事の相談もしています。
❚ 22才
この頃、家族と普通に会話できることの嬉しさを実感していた。
就職活動も上手くいき、東証一部上場の小売企業に入社した。
私の学歴を考えると、少し背伸びした企業だった。そのこともあって、入社当初から「(自分は出来が良くないから)誰よりも働く」と決め、毎日仕事の始まる前に1時間、仕事終わりに1時間の計2時間を1年間、復習と予習の時間に当てると決めた(実際、1年間やりきった)
しかし、
そんな意気込みとは裏腹に、耳を疑うような発言を聞いた。
入社から1ヶ月が経った頃に懇親会があり、そこには部長Mが同席することになっていた(一部上場企業の部長なので、一般社員の私が会えるのは年に1〜2回ほど)
その席で、部長Mが「飲み会の立ち振舞いで人事評価を決めている」と話していた。「え?」と耳を疑った。特に言及することはなかったが、違和感を感じた。
それから数カ月後、
新卒社員の全員が本社に呼ばれ、人事部長Aとの評価面談をすることになっていた。
実はその数日前、直属のエリアマネージャーとの評価面談があり「あなたは努力もしているし結果も出てる!だから、私がこれまで見てきた新人の中で一番いい評価をつけたから!」と、お墨付きだった。そのこともあって意気揚々としていた。
しかし、
人事部長Aとの評価面談では、30分間の面談のうち25分はひたすらダメ出しだった。残り5分になったところで思い出したかのように、エリアマネージャーからの評価シートにも目を通した。
すると「(分が悪そうに)あー。店では評価されているみたいだね…。でも、そこで評価してないから」と言われた。
その日、
新卒社員の面談が終わった後に打ち上げがあった。その席で人事部長Aが「店舗での実績ではなく、研修態度とか飲み会での気配りなんかも評価に含めている」という主旨の話をしていた。
「は?」と思い、懇親会を途中で抜けて帰った(いま思えば、人事部長Aの言い分も一理なくはないが、それは心の内に留めておくべきだと思う)。
さらに、
最終的な評価も店舗での実績(エリアマネージャー評価)は「A」にも関わらず、結果は「C」だった。
今までやってきた努力が無駄になったようであまりにも虚しく、本社からの帰りの電車の乗り換え(上野)で人目もはばからずに泣きながら歩いていた。
この『痛み』は
と私に決意させた。
❚ 『痛み』から得たこと
ここまで振り返ってみて、
この様な『痛み』の経験が「自分の力で生きていく」「人生の主導権は自分で握る」そんな想いを強くしたのだと改めて実感した。
もちろん、
何もないところに突然この様な信念が生まれたわけではなく、小さい頃から自分で何でもやりたがるタイプだったため「元々あった資質を痛みが強めてくれた」という感覚に近い。
タラレバの話だが、
Nは、自分の価値を人との関係のなかでしか感じ得なかったのかもしれない。
母も、父の暴力から守ってくれるような強い存在が必要だったのかもしれない。
当時の私も、自分の力で生活することに先の見えない恐怖を感じていただけなのかもしれない。
自分の足で歩く勇気さえあれば、何かが変わったかもしれない。
自分で声をあげる勇気があれば、何かが変わったかもしれない。
自分の力で未来を想像する勇気があれば、何かが変わったかもしれない。
いずれにせよ、
今の私は、日々の大変なことも含めて充実した毎日を過ごせている。そして、どんなに苦しい状況に陥っている人と対峙したとしても「絶対になんとかなる」と心から信じられる。
だからこそ、この『痛み』には本当に本当に感謝している。
そして、この痛みが全てリソースであると気づかせてくれた仲間たちや人生の先輩たちにも感謝している。
<補足>
繰り返しになりますが、2022年の現時点では私は父親とも母親とも仲が良いですし、 今ならNや新卒で入った会社の上司の意図も理解できます。
❚「いま」と「これから」
改めて、
いま私は、ゼロイチ(独立起業など)に挑戦する人に向け「パーソナルコーチング」を。有償レベルのコーチングの提供を目指す人に向け「コーチ育成講座」を提供している。どちらも「自分の力で価値を生み出せる人間になる」を最初のゴールに設定している。
最初のゴールというのは、
「自分の力で価値を生み出す」「自分の力で生きる自分になる」は手段の一つであって、最終的な目的はその人自身の生き方・働き方の選択肢を増やすこと。
「(自分の力で)なんとでもなる」そう思えると、生き方や働き方の選択肢は広がる。
よりアグレッシブに挑戦できるようになるため、その先は、独立起業しようが、世界を旅しようが、週の半分は休みにしようが、365日働こうが自由。ライフスタイルやキャリアは自由に選択できる。
そして、
例えばオリンピックで一生懸命に打ち込む選手たちを観て「私も(俺も)頑張ろう」と勇気をもらえるような感覚で、勇気をもって挑戦している人の周りでは挑戦する勇気が生まれやすい。
挑戦する姿を見た人々は、
「在りのままの自分を受け入れる勇気をもちたい」と一歩踏み出したり、「助けて欲しい時に助けてほしいとお願いできる自分になりたい」と実際に声をあげてみたり、「他人の意見や評価は無視して、本当に求めている状態を目指したい」と自由に自分の将来を想像してみたり。このように、最初の一歩を踏み出していく。
この一歩は大きな一歩である必要はない。
数千粒のドミノを倒す際、最初の一粒のドミノにちょっとだけ触れるような、それだけ小さな一歩で十分。
あとはせき止めていた物が決壊したかように、誰にも止められないうねりが生まれる。一度この流れが生まれてしまったら、もう誰にも止めることはできない。
そして、
何度も何度も私自身が目の当たりにしてきたが、人の流れも同じで、一粒のドミノ(一人の人間)が動き始めると、影響が波及して周りの人間も次々と動き始める。人一人が一生に出会うと言われる30000人に対し、この波及を届けることができる。当然、この流れも誰に求めることは出来ない。
だからこそ、
今後もパーソナルコーチングとコーチ育成を通じて、ひとりひとりの一歩踏み出す勇気を後押しし
このようなことを、私や私の仲間たちを介して伝えていこうと思う。
❚ あとがき
ここまでお読みいただきありがとうございます。
この記事は、私の思考の整理を目的に書き綴りましたが、もしこの話があなたの人生の一歩を踏み出す勇気になれば幸いです。
もし、あなたの最初の一歩が「100年時代を自分の力で生きたい」「一緒に挑戦を後押しする社会にしたい」このような一歩でしたら、心から嬉しく思いますし本気で後押ししたいです。
拙い文章ではありますがLINEで「自分の力で生きるため」「挑戦を後押しするため」に役立つ情報を心を込めてお届けしていますので、お役立ていただけたら幸いです。
追伸:
LEBEN CAREERが提供するパーソナルコーチングサービス「LCPコーチング」及び「コーチング養成プログラム」のいずれも、2022年よりサポート体制を強化するため、それぞれ年間10名までを定員としております。
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