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大いなる無駄な時間

写真とは関係ないけど、今日は無理だろーなーと朝から支援に向かい、やっぱりダメかーと肩をすくめてトボトボと歩いて、対応するスタッフに申し訳ないけど引き継いだ。
無駄足かー、と思ったけど、ふと、これは大いなる無駄とも言える時間ではないかと気づく。
昨日は車で45分かけて向かったケア会議がなくなっていて、それは単純にぼくの共有ミスだった。
現場へ戻る道すがら、その風景を撮りたくなるぐらい、気持ちの良いドライブの時間になった。

そんな時間を2日連続でもらえるなんてと、逆に嬉しくなってしまった。
来週は別の事業所の担当に、無理だろーなーと思いながら連携をお願いしてみる。

就職したばかりのころ、こういう大いなる無駄な時間がたくさんあった。
そういう中でメンバーや関係者、スタッフをクサすようなようなこともなく、また駄目だったなーと、次どうしましょうねという時間の中にスタッフはもちろんメンバーもいた。
辛うじてリベルテのスタッフとはその無駄を共有できていると思う。
今、同じ業種の方とどれだけ、この大いなる無駄な時間を共有する機会があるんだろう?
あ、でも何人か浮かんできた。

無駄な時間ほど、無くそうとすれば、いとも簡単になくしていけるのだけど、つくろうとすると、途端にとても難しい。
現場のスタッフは、ぼくも現場にいた頃そうだったけど、この時間が失われることに敏感だ。
それが正しいと思うし、これは経営の課題だと思っていた。
だから一時期、これはぼくの力不足だと思っていたけど、どうやら違う。
この、大いなる無駄な時間がなくなっているのは、何か構造的な、ある意味、会計の問題なのだ。
ある意味ネタバレだけど、東畑開人『居るのはつらいよ』が示したラストは、この問題こそ、ぼくがリベルテを始めてからはじまった内なる闘いことなのだと意識させてくれた。

大いなる無駄な時間。
一緒にこの無駄な時間の中で、話をしたり、笑ったり、意見を戦わせたり、すれ違ったり、何もできなかったり、何もしなかったりする。
それは意味があることだと言うことができるかもしれないけど、それは結果としてそう思えたらそうで、案外、徒労感や無力感としてすくわれることなく沈んでいくことの方が多いかもしれない。
先立って意味があるからとか意義があるからその時間を共有するのとは、ちょっと違う気もする。
最近、息子に間違いを指摘すると「まちがえちゃった!まちがえちゃった!」と嬉しそうにする。
知っているけど間違えることは、駄目なことじゃないんだなと、むしろ遊びとして楽しそうな息子を見て思う。
いや知っているけど違う遊びをすることは、怒られたとしても、あとから違う意味を持つかもしれない。

無理かなーとか、無駄だろうなーとか、知ってるような結果になる気もするけど、もしかしたら違うかもしれないし、その人も同じように考えているかもしれない。

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