『精神0』を観ました(1ヶ月前に、の感想)
『精神0』を見ました。山本先生の引退前後(正確には引退途中から)を撮影した想田和弘監督の観察映画です。
冒頭、山本先生は治療方針について引き継ぎのことを患者さんと話します。とても真剣に、親密に、すこし諦めたような寂しさの交じる表情で。ある人は数枚にわたる手紙の中でお金をせびる。希望額4,000円の内、3,000円を渡します。励ますように肩を叩きならがら部屋から優しく押し出す。しかし同時に、入口横の事務室にいるスタッフへ患者の要望を伝え、どうするか指示を出す。カルテに書いて終わり、ではなく、たぶんケースワーカーのような仕事も先生の仕事範疇に入っている、いたのだと思う。
ところどころで推し差し込まれるモノクロ映像は、前作『精神』の撮影当時の映像か。10年前と先生の机周りは全く変化がない。待合室のエアコンは真新しいものだけど、診察室は黄ばんだ旧式のままだ。患者が座る椅子は革張りの(よくドラマなどで病院の院長が座っているような)しっかりとした回転椅子。先生のイスは古い事務机用の回転椅子だ。ヒヤシンスが診察室の窓際に飾ってある。陽の光があまり入らないのか徒長して葉の部分が伸びてしまっている。ヒョロっと窓際の方に少しカーブを描き伸びている。さて、その部屋の日当たりで花は咲くのだろうか。診察室はあまり陽の当たらない場所に配置されているのだろう。日陰の部屋で「そうじゃろ、そうじゃろ。お前さんが納得いくならそうしたらいい。そうやって生きているってことは大変なことじゃて。頭が下がる」と患者に声をかける。先生はそうやっていつも日陰側に身を置いてきたのか。
精神疾患は突然、劇的に回復するものではない。当事者とともに病気や障害に対峙するとき、ただただ一緒にいることしかいできない。度々、仕事でぼくも直面する。診察室はまさにそれが途切れることなく続く、そういう場所だ。そんな場所で「先生に中毒です」と家族からの冗談で笑いあえるなんて。もらいものも、いつもありがとうと受け取るし、平気で診療時間外の診察室に雑談しにくる患者にも一通り話を聞く。働いている人は白衣を着ていない。整理整頓し身ぎれいにしている先生やあの部屋は誰のものでもない風通しのよさがある。診療所はどこか公民館のようだ。前作でもそう思った。けれど、今は誰もタバコを建物内で吸ってなかった。時代の変化をそこに感じた。
どんな優秀な人でも、自分の仕事に対して責任を担える時間は有限だ。あのスタイルでの治療は一緒に働いているスタッフは苦労しただろう。先生の「治療」が患者にとって信頼しうるものだったとしても、どこまで行ってもそれは山本先生との関係性の中に宿る。エビデンス=証言は、目の前の人の方にあるのだ。医療という制度の中で医師−患者−従事者という関係はどうしてもつきまとう。患者と先生、スタッフと先生、スタッフと患者という関係では1対1だ。だが山本先生からすれば、先生対「診療所にいる人全て」だ。いちばんの理解者として、その関係を繋ぐ役割を一手に担っていたのが奥さんだったのかもしれない。その苦労は彼女の親友という関さんから語られる。妻が認知症になり、一緒に働いた聡明な面影は消え、思い出づくりに出かけた海外旅行の記憶も残らず、残ったのは「一緒にいる生活」だ。
昨年、東京で監督の話を聞く機会があった。そこで感じたのは監督の「するか/しないか」の決断を重視する姿勢だ。それに対し作品は観客に際限なく委ねられる。「こういう作品だ」と観客は監督の答えをなぞれない。それは実は、見る側としては苦しい。ずっとモヤモヤが残る。あの映画を思い出すと晴れない霧のようなものが現れる。あれは何だったんだろうと。妻と二人で暮らす家。片付かない部屋。監督を呼び止めて寿司と酒を飲む。妻を追い越し歩く姿と、手をつなぎ墓参りをする姿。駐車場の猫。結局、山本先生が何を考えていて、どう妻のことを思っているのか。旅行に連れて行ったことを遅かったのだと後悔のように話すが、それは妻の友人に向けた言葉だったかもしれない。
『仮設の映画館』で『精神0』を鑑賞してから1ヶ月が経った。ぼくが、そう感じているのだとしたら、先生も妻に対する気持ちをこうだと答えられるようなものではないんじゃないか。ふと、そう思った。一緒に夕飯をと引き止めたあの場面、ぼくはいたたまれない気持ちになった。想田監督が断らなくて本当に良かった。ぼくはあの場面でものすごく安堵した。先生の寂しさを感じてしまったからだ。山本先生は「わからない」ことに向き合う寂しさも、人と一緒にいることの切実さも知っている。首尾一貫、患者や妻に向き合う姿に変わらなさを感じたし、ぼくはそれに戦慄し動揺した。そんなこと、だれもできないじゃないか。と。けれど、想田監督を引き止めた先生は、先生ではなく山本さんだ。「わからなさ」の中、寂しさを感じ、想田監督と寿司を食い、妻と一緒に暮らす。
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