見出し画像

伝わるスピード/意味と意思

地域の福祉関係者が有志の団体や個人で組織する〜連絡会などの集まりにリベルテとして参加する機会が増えてきました。昨年は、そうした集まりが主催するイベントを1から立ち上げたいので参加してもらないかと2つの企画に参加しました。リベルテが活動する上田市内の福祉施設として、ぼくたちは決して経験年数がある方でもなく、今年38歳のぼくは構成員の中でも若手であることが多いですが、そんな中で呼んでいただけるのは、これまで「企画」したイベントなどを地域に社会に向けて発信しているからだと思います。福祉の分野で施設が、施設や病院のお祭りではなく、トークイベントやワークショップを助成金取ってまで毎年定期的に行うことは珍しく、「そういうことが好きだから」という印象なのかもしれません。

昨年参加した2つの企画は、感染症対策を行った内容で今年も行う方向で進んでいます。1つは、ほとんど企画コーディネーター的な役割を担わせてもらっているような感じです。地域福祉や医療の横のつながりの中で活動は、地域との取り組みは施設業務外のボランティアになるので大変な側面がありつつ、具体的な形でネットワーク寄与できるのでとても貴重な機会でもあります。そうした考えはぼく自身の前職の職場である法人の当時の理念でもあり、地域福祉って何もないところから一つひとつ作っていくのが、まどろっこしくもあるけれど楽しくもできるところでもあります。既存の仕組みにコミットするのは柵もあるのだけれど、ダイレクトにネットワークへ自分たちの行動で思想をぶつけたりインストールできたりと、良い側面もある、とぼくは思っています。

で、昨年も今年も会議に参加すると必ず出てくる話題が「これどんな意味があるのか」「どうやって意義を広げるのか」っていうものです。特に何かやろうと始まりの顔合わせの会議にはそういう議題が必ず出てきます。そのこと自体は悪いことではないのだけれど、「意味」や「意義」が見いだせないと動けない、やる意味はないのではないかと、そもそもそれがあって中身を考える会議なんだけれど、どうしてもダイレクトに意義が伝わらないといけない、明文化して伝えることを求めてくる人が一定数います。または「計画がない状況で人を集めるのは失礼だ」という人も中にはいます。わからないわけでもないので、そういうとき、どうしたらいいかあまり頭の回転がよくないぼくは考え込んでしまうのだけれど。

もちろん軽んじているわけではないのだけどそれそのものは、意味や意義というのものはむしろ受け取る側からも発信する側から「重い」ものだ。間違って伝えたくないし、勘違いもされたくない。例えば、「障害のある人の地域に生きている人で差別はいけない」ということを伝えたいとき、そう言っってしまえば、そうだねとなるんだけど、その意味や意義なんかはやっぱり伝わらない。発信する側がそうしたいテーマの意味や意義にはいろんな文脈の中で発しられている。言葉になっている部分以上に重たい意味や意義がそこにはあって、受け手に伝わるまでかなり時間やその文脈や実際の状況を知ってもらうまでの手間などがかかる。いや、そこまで伝わらないことがほとんどだと思う。「障害のある人の地域に生きている人で差別はいけない」と言って伝わるのであれば、もうそれはその言葉を発した瞬間に解決しているのだ。解決していなくても、聴いた人にもっと具体的な意識や行動の変革を及ぼすような影響があるはずなのだ。

最近、上のようなつぶやきをしてみて、呪いはある意味、意思のかたまりのようなものだと思った。意味や意義というのは、意思や思考が蓄積し蒸留されて生まれてくるのだとぼくは考えているけれど、もう一方でそれが精製される過程には必ず物理的な移動や行動する時間が関係するとも思っている。だから「やってみて考える」ってことは、ものすごく大事だし、最初から意味や意義があることって、実は誰かがそれ相当の移動と時間を費やし生み出してきたものだと思う。反面、思ったらやるってのは、「呪い」を生み出すような間違ってしまうことも含めリスクやわからなさから不安も生み出す。けれど、同じように「楽しさ」や「面白さ」はそれ同等、いやそれ以上のスピードで相手に伝わっていく。共感を得られともに行動しながら、意味や意義について言葉を交わし確認することで生まれてくるものが新しい価値観になっていくのだと思う。それが別に新しい言葉や概念ではなくても、そこで交わされた意思の交換と行動することで生まれた感情が、連帯をつくっていく。文脈を共有する仕組みを仕込ませるとしたら、こんな機会はないのだ。あ、企画を立てる意味みたいな話書こうと思って、まったく逆の内容になってしまった笑

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?